大和商業研究所2022年7月27日2 分石門心学風土記 第35回 信濃の国 時中舎時中舎を開祖の「自謙」さま 信濃の国に心学舎は十二舎あった。摂津・播磨に次いで舎数は国別で三番目に多い。その理由は、植松自謙(現富士見町、1750~1810)、中村習輔(現千曲市、1731~1816)の二人の秀逸な講師が出たからである。自謙は、中澤道二の跡を継いで、江戸・参...
大和商業研究所2022年7月25日3 分石門心学風土記 第34回 長門の国 吉田松陰と石門心学松陰、幼少期に奥田頼杖の心学道話を聴く 天保六年(一八三五)の夏、萩の城下は奥田先生(清水注:広島の奥田頼杖、著名な心学講師)の来講というのが大評判となって、毎日毎夜「日章舎」は聴衆戸外に溢るるばかり。中に年齢僅かに五、六才位の眉目秀麗な一少年が毎講早くから来て、熱心に講義...
大和商業研究所2022年7月22日2 分石門心学風土記 第33回 越後の国 越後騒動と小栗了雲の運命将軍・徳川綱吉の誤裁定で越後高田藩は改易、小栗美作父子切腹 文献には「了雲の父正宗、大宗美作の事に座す」とある。美作とは越後高田藩の筆頭家老・小栗美作。「越後騒動」の首謀者とされた。 この騒動は藩主・松平光長の後継を巡る長い争いの末の悲劇であった。光長に実子はなく、後継を光...
大和商業研究所2022年7月22日3 分石門心学風土記 第32回 山城の国 了雲と梅岩の邂逅と切り結び石田梅岩は小栗了雲の峻烈な指導の下に独自の道を拓き私塾を開講する。京都市中での講話及び『都鄙問答』出版で多くの門人を育てた。その源流は了雲の儒仏理解と胆力にあった。 梅岩の未熟さを徹底して指摘する了雲師 書物によると了雲の略歴は以下の通り。「故あって京都に隠れ居た、黄檗宗の...