top of page
  • 執筆者の写真大和商業研究所

『道得問答』慈音尼著 巻の一 八歳にして母に後れ夫より菩提心に志すの段①

松柏舎では2022年8月から12月(10月は京都・鳥辺山墓参の為、座学は無し)にかけて、4回にわたり、慈音尼の『道得問答』巻の一の第一段「八歳にして母に後れ夫より菩提心に志すの段」を読んできました。

順次、「原文」「現代語訳」「註釈」を掲載します。

なお、輪読用テキストは『近世庶民教育思想(三)』(日本図書センター、2001年)の『道得問答』(523~529頁)を用いました。原文は、万代博志氏のFBよりお借りし一部修正の上、用いました。


1日目(2022年8月29日)523~525頁2行目

【原文】

 抑(そもそも)我、八歳にして母におくれ(注1)、其折柄、母の追善(注2)に、天臺坊主、佛前に向ひ、晝夜、法華經よみ申せば、其坊主の後ろに廻り、色々さまたげをなして、あそび候得ば(注3)、其坊主のいふは(注4)、「これこれ、じやまをしやるなや。是は、汝が母の能き所へまゐられ候爲に讀み申す經文なり」といふを聞き、然らば我、坊主になり、母のために、經をよみ、其功徳を以て、母のゆくゑを見んと思ふ心、だんだんつのり、魚肉をたべる心なし。出家を願ひ候得共、父を始、眷族共、中々請がふ氣しきなし。何とぞ出家に成りたく思ひ、四方八方の神々を、晝夜、怠りなく祈り申せば、父、其氣ざしを見て取つて、ゆるし心になれども、然らば出家になれと、申す言葉もなし。

 かれこれいたすうちに、はや十四歳に成りぬ。世上(注5)より、娘に致し度由申し來れば、其節、父は、何ともいはざるに、眷族ども打寄り我に向ひて申すは、「先一度縁につき、何時成りとも、歸りて出家に成り候様に」と、申し含め候得ども、その返答せず。

かくして、夜の間に、髪を切りて(注6)居申せば、父を始めけんぞく共、是を見てえんにつけと申すものもなく成りぬ。とやかく申す内、はや十五六歳に及び、何とぞ何とぞ髪をそらせ、けさ、衣を着させ、山寺へ遣し、修行させ下され候やうに、父に願ひ候へども、その返答なし。暫くあつて、父申すは、「抑汝が母におくれて、このかたを見れば、手習は嫌ひにて、縫物はせず、一ッとして女らしき事はなし。其上、晝夜、佛神をなぶり、そのいとまには、男わらんべ(注7)とおなじやうに、くるひ遊び、誠に汝は、のうなし猿なり。さやうのもの、ねがひにまかせ、尼寺へ遣し候とも、人、三日は得置き申す間敷」といへり。

我、これを聞くより、思ふは、いつまで待ち候とも、けさ、衣を着する時節は、見えずとおもひ、夫より、父にかくして、人々を頼み、つてを求め尼寺のやうすを承り申せば、京藥師山と申して、おとなしき尼寺(注8)ありと聞及び、父に隠れて、まづ尼寺へ行かんとす。父、よびかへせども、かへらず。

そのぶんにて、藥師山へ遺し、自秀と申す尼の弟子となり、暫くやくし山に居り、心をみがく修行の志は、うすくして、唯經文をよくよみ、學者になり度思ふ心、だんだん募り候ても我等愚昧にして、中々急々には至りがたし。誰有つて、身にしめ、教らるる人もなし。我思ふは、何とぞ、能く教へてくるる人あらば、行かんと思ひ、人々に尋ね承り候所に、ある人、近江國澤山邊南泉菴(注9)桃谷といふ尼、はくがくにて、晝夜怠りなく、何にても能く教くるる人なりといふ。

 我、これを聞きて、自秀といふ師匠に申して、暇を乞ひ、彦根正法寺村桃谷と申す尼へ經文習ひにまゐり、法華經禅録など、少々よみ覺え、無門關(注10)と云ふ書に、「世尊、昔靈山會上(ゑじょう)に在りて曰、吾に正法眼藏、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、教外別傳有り摩訶迦葉(かせう)に付嘱す。」と云ふ語を見て、予も悟道して、迦葉におとるまじと思ひ、心をつくし修行し見れども、中々師なくては、筋道あやふうして、しれがたし。

 何とぞ、しりたく思ふ心より、一日一夜、斷食をもして見たり、時齊(注11)をもして見たり、石山寺(注12)へ七日七夜断食して、籠りて見る事もあり。また、茶をたつて見ることもあり。三千佛を三日三夜に拜し見る(注13)事もあり。


【現代語訳】

私は8歳にして母を亡くし、そのときの法事で天台宗の僧侶が仏前に向い昼夜、法華経を読む際に、その後ろに廻っていろいろと邪魔をして遊んだ。

その僧侶は「邪魔をするな、これはお母さんがよき所に行かれるように読んでいる経文である」という言葉を聞き、それならば私は出家して「母のために経文を読み、その功徳を以って母の行方を見たい」と思う心が段々とつのり、魚肉を遠ざけた。出家を願っていたが、父や親族は中々認める様子が見えない。四方八方の神々を昼夜怠りなく祈っていると、父は許す気持ちになってきたようだが、「それならば出家せよ」と言葉には出してくれない。

そうこうするうちに14歳になった。周囲からは嫁入りの話も出てきて、そのとき父は何とも言わなかったが、親戚達が揃って私に向い言った。「先ずは一度嫁いでから、何時でも戻ってきて出家したらよいではないか」と説得するが、私は返事をしなかった。こうなったからには夜中に髪を切ってしまうと、父・親戚はこれを見て、縁談の話を持ち出す者はいなくなった。

 このようにしているうちに、はや15,6歳になり、「何卒何卒、剃髪し袈裟衣を着て山寺にて修行させて下さい」と父に御願いをするが、返答がない。

 暫くして父は言った。「そもそもお前は母が亡くなってから、これまでの間、手習いは嫌いで、縫物はせず、一つとして女らしいところは無い。その上、昼夜にわたり仏神に帰依し、その間に男児と同じように遊びほうけ、ほんとうにお前は“脳無し猿”だ。そのようなお前の願いの通り、尼寺へ行かせても、相手は3日と置いてはくれまい。」

私はこれを聞いて思った。いつまで待っていても、袈裟衣を着るときは来ない。それからは父には内緒で、人々の伝手を頼り、尼寺の情報を集め、京都・薬師山というおとなしい尼寺があると聞き及び、父から隠れて、その尼寺へ行こうとした。

父は呼び戻そうとしたが私は帰らなかった。文にて薬師山へ依頼し、尼僧・自秀の弟子となって暫く寺に居た。しかし心を磨く修行への志は薄く、ただ経文はしっかり読み、学者になろうとする思いが段々と募ってきた。一方で、私は愚昧であり、なかなか急には願いがかなわず、誰も私の身になって指導してくれる人はいなかった。

私の思いは、何とぞ、よき教えを下さる師がいれば行こうと人々に尋ねていたところ、ある人が、近江国澤山にある南泉庵の桃谷(とうこく)という尼僧は博学で、昼夜を問わず何事もよく教えてくれる人であると聞き及び、自秀師匠に申し出て暇(いとま)を頂き、正法寺村の桃谷尼の下へ経文を習いに参った。法華経や禅の書を少々読み覚え、『無門関』の「世尊(せそん)昔霊山会上(りょうぜんえじょう)に在って曰く、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝有り、摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す」という文に出会い、「私も悟りの道に達して、迦葉に劣らないようになりたい」と心を尽くして修行してみるが、なかなか師となる人がいないので、筋道がふらつき知ることができない。

 何とか知りたいと思う心で、一日一晩の断食、午後の食事を抜く、石山寺に籠って7日間の断食、茶断ち、3千の仏を3日3晩で拝することなどを行った。



【注】

(1)後(おくれ)る:死に別れて残る。

(2)追善:死者の冥福を祈って、生存者が善根を修めること。特に、仏事供養を営むこと。

(3)慈音尼の生まれは1716年。母の逝去は1723年、満年齢では6・7歳のとき。子供の頃は相当いたずら好きであったことが読み取れる記録だ。この文章より慈音尼の白井家の宗派は天台宗であることがわかる。天台宗は高祖の智凱(ちぎ)以来、法華経を教義の中心においており、慈音尼も幼少期より度々この経を耳にしたことであろう。

(4)坊主のいうは:坊主の一言、三つ子の魂となりて百迄及ぶ。大なるかな一言の力。(『心学道話全集(第5巻、忠誠堂)』の注、以下『道話全集』)

(5)世上(せじょう):世の中、近辺、四方

(6)髪を切る:断固たるこの処置、有髯(ゆうぜん、ヒゲがある)男子を撞着たらしむ(『道話全集』)。

「撞着」は突き当たる。

(7)男わらんべ:男童にて、即ち男児(『道話全集』)。

(8)薬師山と申しておとなしき尼寺:京都市北区大宮薬師山(やくしやま)山東町の一様院(黄檗宗)と推測できる。本尊は薬師如来。1711年に近衛基煕(もとひろ、後陽成天皇の男系三世、関白)公の創設。近年まで尼寺。

「おとなしき」は、「穏やかな」を用いた。

【広辞苑】大人しい:①大人びている、②年長者らしい、③おちついて穏やかである、➃すなおで落ち着いている

(9)今も彦根市正法寺町に南泉寺(黄檗宗)あり。

(10)『無門関』第6則「世尊拈花(せそん花をねんず)」は「拈華微笑(ねんげみしょう)」として伝わっている。

 釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法された時、1本の花を持ち上げ、聴衆の前に示された。すると大衆は皆黙っていただけであったが、唯だ迦葉(かしょう)尊者だけは顔を崩してにっこりと微笑んだ。そこで世尊が言われた言葉は上記本文の通り。(出典:『無門関』)

<意訳>(お釈迦様は言われた。私は仏教の真髄たる煩悩の火が吹き消された仏心(生きとし生けるものが皆生まれながらに具える、ものごとをそのままに観る心)を具えている。その真髄に至るための、迷いや妄想から離れる修行法や考えつくすことのできない深い仏の教えを身につけている。それらは文字にすることなく、以心伝心するものである。いま迦葉尊者には確かに伝わった。(出典:東京禅センターHP)

迦葉は釈迦の後継者。十大弟子の一人で「頭陀(ずだ)第一」と呼ばれた。なお、「頭陀」とは「衣食住を制限し、煩悩をなくす修行」(『広辞苑』)。

(11)時齋:午後には食事をせざること。持齋。(『道話全集』)。

(12)石山寺:大津市石山寺。東寺真言宗の大本山。

(13)仏名会(ぶつみょうえ):『仏名経』を読み三千の仏様を礼拝することが今も行われている。


〔写真〕琵琶湖畔は昔も今も農業国だ。


閲覧数:20回0件のコメント
bottom of page