top of page
  • 執筆者の写真大和商業研究所

石門心学風土記 第32回 山城の国 了雲と梅岩の邂逅と切り結び

梅岩の未熟さを徹底して指摘する了雲師

 書物によると了雲の略歴は以下の通り。「故あって京都に隠れ居た、黄檗宗の禅学を修めた人」「老師端荘淵黙(たんそうえんもく)、性命の学を好む、自ら楽しみ以て世を忘れる、石田先生の師也」とある。

 両者の邂逅の幾つかを列挙する。

①梅岩は商家勤めの三十代中頃までに、自性を知ったと自任していたが、ふと疑問を懐き、方々に師を求めたが叶わなかった。年月を経て了雲老師に出会い、性の論に及んだが全く歯が立たず、師として仕えることになった。

②梅岩は上京(かみぎょう)の商家に勤めており、さほど遠くない所に了雲は住まいしていたのだろう。梅岩は半年程、了雲の下へ立ち寄らなかったことがあった。ある兄弟子が「梅岩は優れているが、師が余りにも厳しいので離れてしまった。大変残念なことだと」と語ったところ、了雲は「梅岩のことは構わず」と平然としていた。了雲の一徹さと梅岩との強固な信頼関係が判る。

③一年半ほど過ぎて、梅岩は母の介護のため生家にて扉を開け表へ出た際、「忽然として、年来の疑い散じ、堯舜の道は孝弟のみ、鵜は水をくぐり、鳥は空を飛ぶ。道は上下に明かなり。性は是、天地万物の親と知り、大いに喜びをなした。」都へ戻り師に伝えると、「我が性は天地万物の親と見た目が残っている。性は目なしである。目を今一度離れきたれ」と突き放される。

了雲師の死後、自性を知り開講に至る

④了雲の病が重くなり、梅岩の看病中に煙草を所望される。梅岩がキセルに火を点け吸口を紙にて拭って渡そうとしたところ、了雲は「私の看病をさぞむさくるしい事と思っているのだろう」と怒り、夜半二時前、退出を命じる。梅岩は退き涙を流すも、兄弟子がとりなし許される。了雲はかねてより梅岩に「仁義をテコに使うな」と述べてきた。自身の作法のどこが師の癇に触れたのか、沈思黙考する梅岩であった。 ⑤臨終間際に、了雲は梅岩に「注を入れた書を与える(後継指名)」と伝えたところ、梅岩は「欲しくない」と答えた。了雲が「何故か」と問うと、梅岩は「我ことに当たらば新たに述べるなり」と言い、了雲はこれを大いに褒め称えた。 ⑥梅岩は「漸く薄々本心是の如くかと知り、死後に至って決定せり」。梅岩が了雲の知・行を孔孟の如く尊んだのだ。そして③④⑤が一気に氷解し、大いに力を得て私塾の開講に至った。

 了雲と梅岩の子弟関係は、正受老人が白隠禅師に与えた壮絶な修行体験を思わせる。了雲は仏教用語を用いていないが、黄檗禅の厳しさが伝わってくる。正受老人は戦国武将・真田信之の子息であったが、了雲は一体何者であったか。

【参考文献】『教育者としての石田梅岩』(岩内誠一)、『石田先生事蹟』『石田先生語録』(岩波書店)

【写真右】京都市永養寺に残る了雲の墓

【写真左】梅岩が開講時に掲げた掛け行灯(明誠舎蔵)


閲覧数:20回0件のコメント
bottom of page