石門心学風土記 第41回 武蔵の国 心学舎と石川島人足寄場
- 大和商業研究所
- 6 日前
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寛政の改革に寄与した中澤道二の心学道話
手島堵庵の命で江戸に下った中澤道二の心学道話は、田沼意次の賄賂政治からの決別を図り寛政の改革を推し進める老中・松平定信に導かれた十五名の藩主達の支持を受け、武士階級に心学の教えが広がる源流を為した。
江戸には、八カ所の心学舎が開設された。とりわけ参前舎と盍簪(こうしん)舎は、心学における関東の本山の役割を担った。
石川島人足寄場の教諭方に心学者が着任
定信の信任を得て火付盗賊改に就いた長谷川平蔵(池波正太郎の『鬼平犯科帳』でおなじみ)の建議により、寛政二年(一七九〇年)、石川島に「人足寄場」が創設され、明治初年まで続いた。日本経済新聞『春秋』(二〇二二年六月十五日)に「日本の刑務所のルーツをたどっていくと、江戸期の人足寄場に行きつく」と掲載された。ここでは犯罪者の更正に資することが主たる役割であった。入所者は職業技術を身に付け、寄場で働いた手当を貯え、出所後は二度と犯罪に手を染めずに済むよう自立を促がした。職種は、油絞り、陶器製造、鍛冶屋、紙すき、船頭、大工など各種あり、労働の質量に応じ日当が支給された。土木工事は施設外でも重用された。
月三回の道徳講話の教諭方には心学者が就き、中澤道二、脇坂義堂、大島有隣、近藤平格、竹田道跡、平野橘翁、菊池冬齋などが道話を語った。人足の中から心学への入門者もあった。
以上のように江戸における心学舎は、四民に道を説くと共に、治安問題や災害対策などに寄与した。
江戸の心学舎への功績調査は不十分だ。近年活動を停止した参前舎の機能を担うためにも心学関係者の一層の奮起が求められる。
【写真】人足寄場の跡地に石川島灯台をモデルに建てられた公衆トイレ

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