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  • 執筆者の写真大和商業研究所

『道得問答』慈音尼著 巻の一 八歳にして母に後れ夫より菩提心に志すの段②

2日目(2022年9月26日) 525頁2行目~526頁後ろから5行目


【原文】

そのほか、さまざま修行に、心を盡し見たること、筆、言葉にも、つくしがたし。或時は、夜な夜な、人しらぬやうにして、川へ下りて、水ごりをとりて、神々を祈り見ることもあり。知識とあれば、何方此方《あなたこなた》と、参禅(注1)したる事も有り。其外、難行苦行、さまざま、心をつくし見れども、是ぞと思ふしるしなし。

 我思ふは、道を教へ、悟らしくるる人あらば、身命なげうつて、自性得心したく思ひ、心を苦しむるをりからに、父におくれ、なげきても、かへらぬ事の、かなしさは、泪にむせぶばかりなり。其上、病身に成り、家内の者共打寄り、相談して、京六角堂(注2)の前に、店(たな)(注3)をかり、これにて暫く養生と申し、其所(そこ)に居り、我、悟道して、父母の成佛を眼前に見ば(注4)今命はをはるとも、何ぞ思ひ残す事のあるべきやと、思ひわづらふ折からに、ある人來りて、「堺町六角通下る所(注5)に、石田勘平と申す儒者あり。世上稀人にて、無縁の講釋し、人を正道に導き給ふ人なり」といふ。

我これによつて、まゐりて見れば、朝講(注6)は、論語等、夜講には、山姥(注7)の謠のかうしやく、打入つて有難き意味合、中々窺ひがたき所あり。常ならぬ人の様に思ひ、近附になり、打入つて、行跡の様子を窺ひ見れば、いかなる大聖、賢人も此上は在るまじくとぞんじ、此人にたより、教により、修行し見れども、我等ふつつかにして、中々、これぞと落着しがたし。

 我思ふは、是程德のそなはりたる仁、何國(いづく)にあるべくや。此所にて取得ずんば、一生自性を得る事、あるまじくとおもひ、堺町姉が小路上る町木村平助(注8)と申す人、其節、石田先生の門弟也。此座敷を取仕切り是にて修行いたすべきよし(注9)、平助夫婦もろ共、進め申すにまかせ、二疊半のざしきに取籠り食を斷ち、はんぎり(注10)に水をくませ、晝夜、水をあび、工夫いたし、心を盡し候所、身もつかれ、ばうぜん(注11)として居たるとき、そよそよと吹來る風に、思はず我身を驚かす所にて、古今變滅にあづからず、全體そのままの我なる事を、ほうほつ(注12)と知る所あり、在難き事も、面白き事も、此上なき事、決定せり。大高恩の父母は我身にそうて、諸共に守の神と成りたまふ、親の心を、眼前に拜する事のありがたさは、骨髄に徹しけり。

 一心の門(かど)を開けば、法界の草木國土佛(注13)といふも面白く、柳はみどり、花は紅、おのれおのれが法をとく、實(げ)に面白き、天の氣しきかな。信心堅固に、修行の功積りて、忽然とひらくことあらば、暗夜の忽(たちまち)に明け、一天照然として、明かなるがごとし。

 すべて、神儒佛ともに、自性を得心するを要とす。先佛法において云ふ時は、天台宗には、止觀といひ、眞言宗には、「阿字本不生」と云ひ、禅宗には、「木來の面目」と云ひ、念佛宗には、「入我武入、機法一體」といひ、日蓮宗には、妙法と云ひ(注14)、神道には、神明又は自己の尊神とも、申し奉るとかや。樣々に名はかはれども、修行熟して、至る所は一なり。

  わけのぼるふもとの道はおほけれどおなじ雲ゐに月を見るかな(注15)


【現代語訳】

 その他、様々な修行に心を尽くしたが、筆では書き尽くせない。或る時は、毎晩、人に知られないように川へ下りて、水垢離をして神々に祈ったこともあった。知識のある人がいると聞けば、方々へ出かけ、参禅(公案を解く)をしたこともあった。

それ以外に、難行苦行あらゆることに心を尽くしてみたが、これだと思うきざしが見えない。私の考えは、道とは何かを教え、悟らせてくれる人がいれば、身命を投げうっても自性を会得したく、心を苦しめた続けたが、そんな折りに父を見送ることとなり、嘆いても取り返しがつかない悲しさで、涙にむせぶばかりであった。

 その上に病身となり、家中の者が集まり相談して、京都六角堂の前に住む家を借り、ここで養生をするように言われた。そこに居て、私は悟りに至って、父母が成仏されている姿を眼前に見ることができれば、この命を亡くしても何も思い残すことは無いであろうと、思い悩んでいる折りに、ある人が私の元へ来て、堺町六角通り下る所に、石田勘平という儒者がいることを教えてくれた。

 その人はこの世の中に稀な人で、無縁(紹介状無し)の方にも講釈を行い、人を正道に導きたいという方だという。私はこの話を聞いて参じてみると、朝の講義は論語など、夜の講義は謡曲「山姥」の講釈で、極めて有難い意味合いで、通常は聞くことができない内容であった。

 常人ではないように思い、近づきになって詳しく行跡を伺ってみると、どんな大聖人・大賢人といえども、これ以上の人は有り得ないと知って、この先生に頼って、その指導によって修行してみたところ、私が行き届かない者で、中々これだというところにこころを定めることができなかった。

 私が思うに、これほど徳が備わった人は、どこの国にいるだろうか。この場所で気付くことが叶わなければ一生、自性を得ることはできないだろうと思った。堺町姉小路上がるの木村平助という方が、石田先生の門人であった。木村家の座敷を自由に使いそこで修行すべしと、平助夫妻が共に勧めるままに、2畳半の部屋に籠って、食を絶ち、たらいに水を入れ、昼夜水を浴び、修行に工夫をこらし、心を尽くし続け、身体が疲れ茫然としていたところ、風がそよそよと吹いて、思わずわが身を驚かし、「古今変滅にあづからず」(今も昔も変わることはない)、全体がそのままの我であることを、明確に知るところとなった。有難いことも面白いことも、この上ないことと固く信じて疑いのないものとなった。

大恩ある父母が私の身に寄り沿い、一緒になって守り神になって下さる親の心を目の前に拝する有難さを、骨髄に沁み通ったのであった。

 「一心の門を開けば、法界の草木国土仏」(心の門が開けば、全宇宙の草木や国土も全て仏性を持つことがわかる)と言うも面白く、柳は緑、花は紅とおのおのが法を説く。誠に面白い天の情景ではないか。

 信心を固く保ち修行の功績が積もって忽然と心が開くことがあれば、それは闇夜がたちまちに明け、一天が澄み切って明るく照らされることと同様である。

 神儒仏のそれぞれは、自性を得心することを根本としている。

 仏法では、天台宗は止觀、眞言宗は阿字本不生、禪宗は本来の面目、念佛宗では入我我入機法一体、日蓮宗には妙法と言う。

 神道では神明、自己の尊神と言って敬う。名前は様々に異なるが、修行が熟して到達するところは一つである。

 わけのぼる ふもとの道は おほけれど おなじ雲ゐに 月を見るかな


【注】

(1)参禅:臨済・黄檗宗で参禅は、出された公案を解く。禅問答を行うこと。

(2)六角堂:(紫雲山頂法寺HPより)「淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、用明天皇2年(587)、四天王寺建立の材木を求め、京都盆地を訪れました。太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したといわれます。正式な寺号は頂法寺ですが、御堂の形から「六角堂」「六角さん」と呼ばれ、親しまれています。門前を東西に走る道も六角通りといいます。」

その他、「華道(池坊)発祥の地」「親鸞と法然の縁(『先哲・石田梅岩の世界』21頁参照」「京都の中心地、下京の町堂、へそ石あり、山鉾巡行のくじ引き」など、六角堂は話題となる場所。

(3)店(たな):商家、貸家、借家(『広辞苑』参照)

(4)父母の成仏を眼前に見る:釈迦の十大弟子の一人、神通力第一の目連(大目犍連だいもくけんれん)を思い浮かべる。目連は六道のうちの地獄道で苦しむ母を見つけ、釈迦に相談し、僧が集まる7月15日(雨安居の最終日)に布施を行い、母を救い出した。この逸話がお盆の起源になったと言われる。

(5)堺町六角通下る:梅岩がこの地に転居したのは元文2年(1737年)春、53歳のとき。慈音尼(22歳)が訪ねてきたのはそれ以降のこととなる。

(6)朝講・夜講:『石田先生事蹟』に、「朝の講釈は、明けがたに始まり、辰の刻に終り、夜の講釈は、暮早々にはじまり、戌(いぬ)の刻におわれり」とある。標準時刻で言うと、朝講6~8時、夜講18~20時。

(7)山姥:謡曲「山姥」は心学でよく語られる。梅岩の師・小栗了雲が謡曲の注解書を遺していることから、梅岩にも伝授されたものと推察する。脇坂義堂の著書にも載る。『広島の心学』(及川大渓著)には「山姥の弁儀」として102頁に亘り詳細が掲載されている。矢口来応、中村徳水ら、広島の心学者も語り継いだ。

(8)木村平助: 木村重光、1703-1756、大木屋平兵衛、兵助、南冥、大喜屋とも言う。材木商。堺町姉小路上る(丸木材木町)、梅岩の高弟、妻でん、子・平四郎、下女しげ共々師の生活面で世話をなす、慈恩尼が寄宿した。重光は師没後、江戸にて講釈を行った。書籍遺品は杉浦宗仲家に遺された。(『教育家としての石田梅岩』岩内誠一)。

(9)取り仕切る:「責任を一身にひきうけて扱う」(広辞苑)。原文「此座敷を取仕切、是にて修行いたすべきよし」は平助夫妻が共に勧めた言葉と解釈。

(10)はんぎり(半切、盤切):底の浅い盥(たらい)状の桶(広辞苑)。

(11)茫然:広大なさま、判然としないさま、呆然に同じ。と「広辞苑」にあるが呆然(あっけにとられる、ぼんやりしているさま)ではなく、前二者のニュアンスを執りたい。

(12)ほうほつ:「ほうふつ」の間違い。髣髴・彷彿。(『道話全集』にも同じ記述)。

①ありありと思い浮かぶさま、②ぼんやりと見える。(広辞苑)。ここの解釈は①とする。

(13)「一心の門を開けば法界の草木国土仏」

「一心の門」:一心は「三界唯一心」(心を離れて別に事物が存在するのではない)のように使われる。

「法界」(ほっかい)」:仏教用語、存在するものの総体としての全世界(広辞苑)。

草木国土悉皆成」(大日本百科事典、コトバンクHP)

草木や国土のような心識をもたないものも、すべて仏性を有するので、ことごとく仏となりうるという意味の成語。『涅槃経(ねはんぎよう)』の「一切衆生,悉有(しつう)仏性」の思想を基盤とし、生命をもたない無機物にもすべて「道」が内在するという道家の哲学を媒介として、六朝後期から主張され始めた中国仏教独自の思想であり、天台・華厳などで強調される。

(14)仏法において:『都鄙問答』「性理問答の段」(岩波文庫、87~88頁)の次の言葉に同じ。

「仏氏にていはば、天台宗は止觀と云う。眞言宗は阿字本不生と云う。禪宗は本来の面目(めんもく)と云う。念佛宗には、入我我入機法一体などと云う。日蓮宗には妙法と云。加樣に名目には替りあれども、修行熟して至る所は一なり。」

(『道話全集』の注には、「阿字本不生」(万物みな不生不滅なりとの意)、「本来の面目」(いわゆる自性なり)、「入我我入機法一体」(仏と我と一体なりとの心なり)とある。

(15)一休禅師の道歌と伝えられる。なお下の句は、「同じ高嶺の月を見るかな」が一般的。


〔写真〕堺町六角通り下がるにある「石田梅岩邸」跡碑




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