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  • 執筆者の写真大和商業研究所

石門心学風土記 第22回 但馬の国 養浩舎

心学舎の建物・貴重な資料が残る

兵庫県豊岡市に養浩舎・田井家を訪問した。紹介頂いた潮崎誠氏(前豊岡市立出土文化財管理センター所長)も同席された。

築後二百年の母屋に、心学「養浩舎の部屋」も在り、扁額・軸・多数の古文書類が残る。とりわけ養浩舎創始の田井惣助の手になる『家事日録』は農事記録や年中行事、交流関係が詳細に記録されており貴重な資料だ。子孫の浩明氏より田井家の歴史、養浩舎の来歴、郷土の偉人・田中河内之介の伝記など、詳らかに伺った。

 石川謙先生の『石門心学史の研究』には、「所在地は但馬・香住(穴見谷)、文化元年頃創立、天保年間廃絶。都講に小森露齋、足立惣助、宇野文右衛門ら六名の有志で設立、具体的活動について徴すべきものに接しない」と、そっけない記述となっている。田井惣助の名前も出てこない。おそらく石川先生はこの地を訪れずに執筆されたのであろう。

 江戸期の心学舎建物の中で、たつの市の思誠舎が昨年6月に取り壊されており、残っているのは養浩舎が唯一ではないか。当日に拝見した遺品の主なものは「養浩舎扁額」(木彫、上河淇水書)、「渓田蘆」(書と木彫、中山忠能書)、中澤道二書「あるべきよう」、手島和庵書「知者楽仁者寿」、その他惣助書、『家事日録』、施印、『田井惣助とその時代』、『河内介ってどんな人』。

惣助は大地主で庄屋。初代惣右衛門から数えて八代目当主(裕明氏は十四代目)、明和8(1771)年生まれ、文化2(1805)年養浩舎を開く、心学の布教者であり子供たちにも教える。嘉永4(1851)年没。

勤王の志士・田中河内介も学ぶ

田井氏の隣地に、田中河内介(幼名、小森賢二郎1815~1862年)の顕彰碑が建立されている。河内之介は幼少期に豊岡の心学「含章舎」に学び、医師である小森家の養子となってからは隣家の「養浩舎」に学び、その後、田井家からは物心両面で支援を得ている。長じて河内之介が仕えた中山大納言忠能(ただやす)の息女が、斉明天皇の男子・祐宮(さちのみや・後の明治天皇)を生んだ。祐宮は五年間、中山家で育ち、河内介は御用掛として奉仕した。文久2(1862)年寺田屋騒動で捕縛。薩摩に送られる途中、垂水沖で、息子左馬介と共に殺害、海に投じられ小豆島にて葬られる。

浩明氏によると、河内介の件で田井家を訪問する人は多いようだが、心学関係で訪ねたのは私が初めてとのこと。心学の光被が但馬の地でも燦然と輝いている。

(この地への訪問は2017年11月12日)



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