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  • 執筆者の写真大和商業研究所

石門心学風土記 第21回 丹波の国 石田梅岩先生ご生家

この夏も石田梅岩先生のご生家を訪問。石田二郎当主(八十八歳)にお元気でお迎え頂いた。この地に立つと、先生の心願を思い起こさずにはいられない。

石田梅岩先生の生い立ち~大志を育む~

先祖は亀岡を治めていた石田氏の家臣曾和市郎兵衛。この地の支配を狙った明智光秀の陰謀で、石田氏の子息と共に人質になるが、機転をきかせ虎口を脱出。その功で石田姓を賜わる。

先生は貞享二年(一六八五年)九月十五日、丹波桑田郡東懸村に生まれる。当時の絵図には生家の前に八幡神社、東に菩提寺の春現寺(曹洞宗)。氏神は更に東に有る春日神社だ。

先生は幼少期に父の山と思い、他人の栗を拾って帰り父に厳しく叱られたことがある。この山紫水明の森に囲まれて育った。「材もまた世の常に超えたり」と『事蹟』にある。私は先生をギフテッド(問題のある天才)だと推測する。

十代始めに京都の商家に奉公に出るが、経営が悪化し四年余りで帰郷し農業に従事。二十三才、再び上京し呉服商黒柳家に勤める。このとき「神道を説き弘むべし。若し聞く人なくば、鈴を振り町々を廻りてなりとも人の人たる道を勧めたし」との大志を有していた。郷里にて天地開闢を学び、日ノ本の黎明に自らを重ねていたのではないか。

母の介護がきっかけで自性を知り、私塾を開く

 先生は商家勤務の傍ら「自性を知る」為の「動中の工夫」を専らにする。四十過ぎに母の介護のために帰郷した際に「性は万物の親と知る」体験が得られた。師の了雲(禅・儒学を修める)に伝えると「目が残りあり」との指摘で、更に寝食を忘れ工夫し、遂に自性見識の見を離れた。これを得て、京都・上京の車屋町御池上る東側の借家で私塾を開講し、人々に安寧長久の道を説くことになる。

その年に母が実家から持参した蓮が育ち翌年開花する。「孝行蓮」と名付け今日まで咲き続けている。先生は独立後、超多忙な日々を過ごすが、折々上京する母を名所に案内し、普段は芝居など見ないが母のお蔭で「かく緩々(ゆるゆる)と見物するなり」と母を悦ばせた。

先生は六十才で逝去。生家と地続きの杉林の山裾に「延享元年、子九月二十四日、石田勘平」の墓碑が建つ。初代甚右衛門、二代目利右衛門、三代目勘兵衛、四代目権右衛門(父)、五代目平兵衛(兄)の墓と並ぶ。尚、初代甚右衛門は、春現寺を開祖した曾和市郎兵衛(春現)の次男である。

毎年命日に墓前祭が行われるが、今年はコロナ禍で地元だけの開催との通知が届いた。心学明誠舎では、命日の前後に大阪・大蓮寺にある梅岩先生のお墓に詣で『石田先生事蹟』を読んでいるが、今年は十月三十一日にご生家でお参りの後、春現寺にて行事を予定している。先生の命日は新暦では十月二十九日である。

三百年に亘り、商人の理念の拠り所、人々の杖言葉となってきた先生の魂がここに宿っている。

(この訪問は2020年8月2日)

〔参考文献〕『教育者としての石田梅岩』岩内誠一



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