実践人誌「偉人伝・石田梅岩と石門心学」(八)
- 大和商業研究所
- 8月29日
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更新日:8月29日
「梅岩は了雲に出会わなかったら、ただの伝道癖の強い、あるタイプの説教師として終わったかもしれない。了雲に出会うことを通じて梅岩ははじめて自己にめざめた自立した思想家となった」(源了圓「石田梅岩の思想」)
歴史的必然~小栗了雲との出会い~
梅岩は二十代で商家・黒柳家に奉職し、勤勉に務める傍ら勉学の独習は怠らなかった。番頭まで昇進するが、心中に疑団が生じる。
先生三十五六歳の頃まで、性を知れりと定めいたまひしに、何となく其性に疑いおこり、是れを正さんとて、かなたこなたと師を求めたまえども何方(いずかた)にても師とすべき人なしとて、年月を歴(へ)給いしに、了雲老師にまみえ給い、性の論に及び、先生みずからの見識を言わんとしたまうに、卵をもって大石にあたるがごとく言句を出し給うことあたわず、爰(ここ)において悦び服し、師として事(つか)え給えり。(『事蹟』参照)
森信三先生が、西晋一郎先生と向き合ったときに想起した場面だ。
小栗了雲(一六六八~一七二九)とは何者か。「故ありて京都に隠れ住む。黄檗宗の禅学を修める。性理の奥義を究めかつ老釈の学に通じ、生徒に教授する」と文献にある。
越後騒動とは(新潟県上越市)
この騒動は越後高田藩主・松平光長の後継を巡る長い争いの末の悲劇であった。光長は家康の次男・結城秀康の直系で、家格は御三家より上。家中には将軍家への対抗意識もあった。
同藩は改易により減封されたとはいえ二六万石。筆頭家老の小栗美作は小大名並みの一万八千石であった。
光長に実子はなく、後継を光長の甥と弟が競った結果、幕府・酒井忠清大老の裁定で甥の万徳丸に決定した。しかし弟である永見大蔵を推す勢力がこれに異を唱え、美作と対立する。
大蔵側は、美作が子息・小栗大六を藩主後継に据えようとしていると根も葉もない訴えを幕府に起こす一方、武装集団五三〇名で美作邸を取り囲むなど戦国時代並みの威嚇を加えている。
同藩の後継者問題は将軍に就いたばかりの徳川綱吉が直接裁き、光長は改易・松山藩預かり。美作・大六親子は切腹。美作の弟は遠島、甥は他藩預かりとなった。
綱吉は自身の将軍世襲時に反対した高田松平家への怨恨と、家格への引け目から、取り潰し・切腹という過酷な断罪に処した。後に美作父子は冤罪であることが証明された。
小栗一族は、女子と美作から縁の薄い四親等以上の男子は罪を免れ、京都に身を寄せた。了雲一家もその中に含まれる。
私は各種文献と上越市への現地調査より、了雲の父は重勝(秀康と共に大阪夏の陣で殊勲)の孫・主殿であると推測した。越後騒動のとき了雲は十四才であり、京都で幕府の監視下に置かれる。なお小栗一族が許され、自由の身となるのは騒動四十年後の一七二〇年であった。
了雲・梅岩子弟の切り結び
了雲はこの四十年間で、①親族との悲しい別れを学芸で癒し、②徳川綱吉に対する怨念を修行で克服した。
そして門弟の中から、梅岩と言う逸材を見出し、自身の果たせなかった志を伝えたのであった。
以下、了雲から梅岩への峻厳な指導と、梅岩の対応を幾つか書き留める。
①梅岩が師に、見性したと語ったところ「性は目なしである。見た目を離れて来い」と言われ、更に工夫して再度の答えに一年半かかった。
②師より「汝は心を知らず。自ら迷っており他を迷わせたいのか。心は一身の主である。身の主を知らなければ宿無し同前だ。自身の宿がないのに、他者を救おうと言うは覚束ないことだ」
③梅岩は師のもとへ半年ばかり行かなかった。門弟子が「師が余りに厳しいので離れてしまった。惜しいことだ」と言ったところ、了雲は「彼のことはかまうべからず」と平然としていた。
④師は言った。「私は本を書かない(幕府の監視下にあったためか)。汝は書く。本を書くことを欲するのではなく人をつくれ。講釈は話を聞かせるのではなく、我に得たところを述べるのみだ。徳を明らかにせよ。」
⑤師より「学問ばかりに月日を過ごしているが、近年中にも宿を持つべし」と言われ、梅岩は「我は長者となる」と答えたところ、師は悦んだ。この長者とは勿論、金持ちのことでない。
⑥師は病いの床で煙草を所望した。梅岩が煙管に火をつけ吸い口を半紙でぬぐったところ「仁義をテコに使うな」と、かねてから叱責していた言葉で激怒。梅岩は看病役を免ぜられ、退室し涙を流す。老弟子がとりなしやっと許された。
⑦師は今際(いまわ)の際に「註釈を加えた蔵書を与える」。梅岩は「我ことに当らば新たに述べるなり」と謝絶すると、師はこの言葉を大いに褒め称えた。
⑥⑦のやり取りがあって一両日、了雲は身罷った。師の叱咤で梅岩の工夫が進み、直ちに開講の運びとなった。
【参考文献】『石田先生事蹟』『教育家としての石田梅岩』『仙台小栗氏考』




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