『石田先生語録』第21段「商人の家中を義に向かわせるには」
更新日:10月15日
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◇「石田梅岩先生の大半の弟子の職業は商家である。その家業を支える五職能(親・妻・子供・手代・奉公人)の人々を義(正しい道)に導くための原点を語る珠玉の言葉だ。 なお現代語訳は生成AI・GEMINIを参考に、清水の責任で綴った。
【問】ある人が尋ねた。「家の者をどのようにして義(人として正しい道)に向かわせればよいでしょう。書面でお示しください。」
【答】石田梅岩の答。
一、親を義に向かわせるには
親から財産を受け継いだ後も、まだ譲り受ける前と同様、「これこれは、このように致しましょうか」と全てにおいて尋ね、親からお前の思う通りすればよい」と言われれば、親も義に向かったこととなる。
もし、お前(現主人)の行う善事を親が気に入らず、道に外れたことを指示するのであれば、一対一で直接、諫めるのだ。「私は非義を嫌うと。」そのことを最終的にわかってもらうのだ。
常日頃から「財産を譲る」と言われても、「ご存命中は財産はご両親様のものです。私はただ親孝行が役目です。お話をお聞きするためにお部屋に伺いました不調法を顧みず申し上げますが、私を一人前(注一)にとお思いでしたら、昔の偉人が語った言葉と、今の世において為すべき事柄とを、ご理解いただきますようお願い致します」と伝えれば、親の不義は収まり、遂には義に向かわせることができる。
二、妻を義に向かわせるには
両親が気にいってくれれば、妻が義に向かうことになる。もし両親が気に入ってもらえなければ、たとえ夫婦仲がよくても、離縁しなければいけなくなると妻に伝えておきなさい。また、兄弟でも、手代でも、他の人でも、物陰で男と小声でささやくことがあってはならないと言っておきなさい。なお、私に相談の上で行うのであれば、それは例外である。女中を使うことは「お前の思い通りにしなさい」と言い渡し、主人が女中に用事があっても、直接は言わずに妻に言わせなさい。たとえ子供の乳母であっても、主人が直接言いつけてはならない。まして下女に手を出したり、世間の美しい女の噂話などをしてはならない。このように我が身において、正しい道を保てば、妻及び他の女性も、自ずから義に向かうであろう。
三、子供を義に向かわせるには
子供が幼い時は心底から慈愛の道理に従って可愛がるのがよい。十二・三歳になれば手子屋に通わせ、学問などを聴かせ、ようやく十六、七歳になり少しでも指導すべきことがあるならば昔の賢人の行いと比べてみせて、子供にこれまで言い聞かせておいたところを繰り返して言って聞かせ、厳しく言うまでもなく、進むべき正道を諭せば、自然と義に向かうはずである。また二十歳ほどになり家業を嫌い、遊興を好み金銀を無駄に使い、親の心に従わないならば、言い聞かせるべきことは「致し方ないことだが、これはお前一代の貧乏をお前自身がつくり出しているのだ。なぜなら親から譲り受ける予定のものを、自分の物だとも分からずに減らしているからだ。財物を使い捨て、ほしいままに振る舞うならば、親の心が変わり、度が過ぎると弟や甥に家督を譲ることもあるだろう。これは親がすることではなく、お前自身が招いたことだと知りなさい。また弟や甥も、もしお前と同じように放蕩する者なら拾い上げることもできないので、結局はお前に譲ることもあるかもしれないが、親は心から譲る気持ちはなく、山賊(注二)に出会い追い剥ぎに遭ったようなものだと思うから、子としては後々の天罰(倒産・売却等)を恐れるべきである。」
昔の賢人である子路でさえも聖人(孔子)の教えの通り、大不孝者がいれば致し方なく処罰したはずだ。それは残された他の子供たちをことごとく義に向かわせようとしたからである。現代においても親不孝者は選別して廃嫡とすべきである。残された子供たちは親の覚悟・意図を理解することになる。
四、手代を義に向かわせるには
「お前(手代)がこの家へ奉公に来てからのこれまでの勤めぶりには、善行もあれば悪業もあったが、両方とも私の許容範囲であり、すでに解決したことである。お前に忠義と不忠義があったように、私も礼義をもって使ったことも無礼をもって使ったこともあっただろうが、お前たちが相変わらず勤めている以上これまでのことは済んだことである。
「これまで」と言ったのは、今日までの考え方である。昔の聖賢のおっしゃったことに照らして見れば、お前たちに不奉公(怠慢)などはない。不奉公と言うのも、こちらが無礼(身勝手)をもって使っているからこそ、不奉公という不忠をさせてしまっているのだと得心した。
しかし不器量(未熟)な私のような主人であるから、今後も無礼な(行き届かない)点もあるだろう。もし私に無礼があったなら、毎月書面にして見せておくれ。私の心において確かに間違っていたと思うことは、お前たちにも書面で見せて必ず改めよう。お前たちの誤解(見当違い)で書いてきたことであるならば、道の理非を正しく言い聞かせよう。もし私が無礼せず、無礼をしていないからお前たちから書面を出さずにいて、それでもなお不奉公をするならば、許されることは少ない(厳しく処罰される)と知りなさい。
さて、手代たちが商売のことに関して不義(誤まった商い)を行い、主人への忠義だと思って金銀を儲けてくれる者がいる。不義の詳細については『都鄙問答』に書き記した通りである。
今後、私の心(正しい道理)に叶わないものは不義である。けれども事が済んだ後に聞いたことであるならば致し方がない。私は心苦しく(苦々しく)思うが、このお金が天命に叶う(しかるべき使い道がある)ならば、お前の勤めがあけてのれん分け(独立)をする際の元手として渡そう。好ましくないお金と思うから、封をして別にして置いておくのだ。お前の心においても快く思わないなら、真に主人への不忠であると知りなさい。」
このようにしたならば、手代は自然と義に向かうはずである。
五、奉公人(下男・女中など)を義に向かわせるには
主人から言っておく。「手代たちは勿論、下女にいたるまで、言いつけることをよく表裏なく聞いて働きなさい。ご縁があって勤めたならば、後にはこれまでの者たちと同じようにして、家(所帯)を持たせてあげよう。夜になって暇ができたなら、十分心を込めて手習い(読み書きの勉強)をしなさい。正直であって嘘を言わなければ、その他のことは状況に応じて取り計らってあげよう」と。この言い聞かせを受け入れることが「義に向かった」と言うのである。
上記の五者(親・妻・子・手代・奉公人)に言った通りのやり方で、だいたい家内全体が良くなるはずである。自分自身に真実(誠の心)を敬い保ち、家の者が自分に対してする奉公だとは思わず、「主人のように正しくなりたいものだ」と思ったならば、義に向かったと言うのである。しかし、家中五人のうちで真実に行う者が二人でもいれば、上々に義に向かったと思うべきことである。
【注】
(一)不便(ふびん):かわいそう、かわいい、面倒をみる。
(二)山立(やまだち):山賊
【解題】
この段は、現代においても、いや「道徳・倫理観」が人々に分け隔てなく語られてこなかった昨今(戦後の教育下)においてこそ、伝えなければならない指摘であろう。
大企業においては、家族経営の分野はなじみが薄いが、世襲もあり、親・妻・子といった親族が経営に関与する場面もある。
中小企業においてこそ、ここに出てくる五者の役割は甚だ大きい。血縁関係にある者はもとより、経営幹部・従業員の力量は企業業績に多大な影響を及ぼす。
石門心学に関心を持つ人々のみならず、経済活動に関わっている全ての働く人において、梅岩先生のマザーランドである「商人の道」をしっかり心に入れて、日常の職務に取り組みたい。
文中に「不義の詳細については『都鄙問答』に書き記した通り」とあり、その指摘を参照する。
同書では商人の道について、第九段「或學者商人の學問を譏るの段」、第十五段「或人主人行状の是非を問うの段」に頁を割いている。(以下頁数は『岩波文庫』、現代語訳は清水)
第九段に二重の利をとる商人の事例がある。反物の長さの偽り、升の大きさの不正、仕入れ先へ不当なクレームを付けて支払いを減らす、倒産した企業とグルになって自分だけが受け取る金額を多くする、賄賂を使って取引の権利を得るなど、様々な不義の手口が載っている。
梅岩先生は語る。
「商人で正しい道を知らない者は、貪ることに一生懸命で、家を亡ぼしてしまう。商人が正しい道を知れば、欲心から離れて、仁なる心を以て努力し、あるべき道に合致して栄えるのは、学問の功徳である。」(五七頁)
「世間の様子を見れば、商人のように見えて、盗人のような者もいる。真の商人は『先も立ち、我も立つ』ことを思うべきである。まがい者は、人をだまして、その場をごまかす。真の商人とまがい者とを同じように論じてはいけない。」(六五頁)
梅岩先生が『都鄙問答』『石田先生語録』で語り、著述したように、真の実学を、今の世にも伝え続けたいものだ。
親子・配偶者・家族ともども心を一つにして「義」に向かう。そして最も大切な経営資源は「人」である。従業員と共に働く喜びを分かち合い、「永続的に栄える」経営を実現するため、AI活用など新たなイノベーションを加えて、進化を続けよう。
「商業界」(倉本長治創設)の「商売十訓」の第一条「損得より先に、善悪を考えよう」は至言である。同社によって、石門心学を学び、社訓としている多くの企業がある。それら先達に学び、お客の喜ぶ経営を続けよう。




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