㊱元文五年庚申(かのえさる)の冬より、寛保元年辛酉(かのととり)の春にいたり、上京下京のはしばし困窮の人多かりしに、其冬は困窮の噂ばかりにて、施行する人もなかりける。先生此事を深くいたみ給ひ、門人を所々へわかちつかはし困窮の人をうかがはしめたまふに、聞きしに増していたましき事ども多かりければ、門人をともなひ三四人づつに分けて、極(ごく)月二十八日より日々所をかへ、銭を持行きて施したまへり。翌年にいたり正月二日よりは、所々に施行する人夥(おびただ)しくありしなり。
㊲先生大阪にて講釈したまひし時、或る神道者いひ出しけるは、この日本(ひのもと)の人を唐(から)の魂になせる講釈こそ心えね。かほどの神敵を退けずばあるべからず。会ひて此事を正さんとて推参すべきよし、度々いひこしけるを、先生事多きにかこつけいひのべ、事なき様にとはからひたまへども、頻りにいひこしけるは、我に逢う事ならずは、此地にての講釈速かにやめらるべしと、しひて妨ぐるゆゑ、先生止むことを得ずして、しからばのぞみにまかせ面談すべしと、答へやり給へば、彼の神道者門人五六人伴ひ、先生の方ヘ来たりしに、先生曰、先づ其許(そこもと)神道信心の事大慶におもへり。伝へきくに、我を神敵と申さるるよし、是大いに其意得難し。いよいよさやうに思はれなば、我ごうりんも二心無く、儒仏を輔佐(たすけ)として、我国の神道正道に人を教へ導き、神忠を尽すところ偽りなき旨、いかやうの誓をも立つべし。我二心なきのみにあらず、今此席にあり合ふ三四人の門人、同じく誓ひを立てさすべし。此外の門人も加へよとならぱ、請ふ所にまかすべし。其許も邪思(じゃし)無き旨誓ひを立て、門人衆にも同じく誓ひを立てさせらるべし。誓の証(しるし)は何事にてもそこもとの望に任すべし。神忠を尽すと、尽さざるとは、此ちかひにて互いに心をはらし、其上にてゆるゆる談ずべしと有りければ、彼の神道者いひけるは、誓ひの事いかにも理(ことわり)におもへり。去りながら恐れある事なり。かく二心なき旨聞きし上は、誓ひには及ぱぬよしとて辞退し止みけり。
㊳行藤氏(ゆきふじうぢ)某(なにがし)、森氏某、都鄙問答を見て、森氏は不審の所を書を以て先生へ問ひ行藤氏は来りて問答すること両度終日におよべり。事繁ければこれを略し、爰(ここ)に其一二をしるす。
行藤氏問ふ。心と性と異りや。
先生答へて曰。心といへば性情を兼ね、動静体用あり。性といへば体にて静なり。心は動いて用なり。心の体を以ていはば性に似たる所あり。心の体はうつるまでにて無心なり。性もまた無心なり。心は気に属し、性は理に属す。理は万物のうちにこもりあらはるる事なし。心はあらはれて物をうつす。又人よりいふ時は、気は先にして、性は後なり。天地の理よりいふ時は、理あって後に気を生ず。全体を以ていふ時は、理一物なり。理の万物のうちにあってあらはれざる事を譬(たと)へば、道元和尚の歌に
世の中はなににたとへん水鳥の
はしふる露にやどる月かげ
かくのこごとくはしふる露の其微塵の如きまでも、ことごとく月かげのうつるごとく、理は見えずといへども、裏(うち)に具はるをしらるべし。我が性を覚悟して見れば、神らしき物もなく、太極や、また仏らしきものもなし。よって此性を会得すれば、儒、老荘、仏、百家、衆技といへども、皆我が神国の末社にあらずといふ事なし。或書に日、日本一面の神国といへば広くして狭し、微塵の中にも神国ありといはば、狭くして広し。行藤氏しかりとて、かのうたをしるす。
行藤氏問ふ。先生門人を教へ導かるるは、心を専らとして教へらるるや。
先生答へて曰、しからず行状を以て教ゆ。
行藤氏問ふ。然らば即ち五倫を専らとして導かるるや。
先生答へて曰、しかり。
行藤氏問ふ。しかるに先生妻子なきはいかなることぞ。
先生答へて曰、吾れ道を弘むる志あり。しかれば妻子にひかれ、大道を失はんことを恐れ、独身にて居れり。
行藤氏問ふ。爰に不審あり。其妻子を帯して行ひがたきをおこなふを道とすべし。教は五倫を専らにして、我においては五倫を廃(す)つるはいかん。
先生答へて曰、しかり。されども其許のいへる所は、顔子のごとき地位なり。子路、再求(ぜんきゅう)の賢徳あるも仕へを先として、再求は季氏の無道に率(ひか)れ附益し、子路は義を見あやまり、非義に與(くみ)し戦死したまふ。是れ顔子に及ばざる故なり。いはんや我ごとき者、何ぞ顔子の行ひに合(かな)はんや。此の故に独身にて居れり。我兄弟あり、甥あれば、先祖の祭りを廃つるにもあらず。我が子孫を繁昌し、吾を祭られんこと、しひて願ふ所にあらず。愚意は一身を捨てて成とも、道の行はれんことを思ふ。是我願ひなり。
㊴先生ある夏の頃、河内石川郡白木村、黒杉政胤(まさたね)宅へ講釈に行き給ひしに、まがきのほとりに流水をしかけありしを見たまひて、此流水は常にあるにやと尋ねたまひければ、政胤仰せのごとく常にある流水なりと答ふ。先生曰、今は農家に水を求むる時なれば、尋ぬるなりと仰せられけり。是は先生のため暑を避けんとて態(わざ)と水をせき入れしやらん。左あれば農の障りとならんことを恐れ尋ねたまひしなり。旅宿より講席へ行きたまふ道にて、田の草を見たまひ、麻上下(かみしも)着しながら、泥土の中へ手を入れ草を取りたまひて、此の草は糞(こやし)を奪ふてあしき草なりと、門人へしめしたまへり。
其辺の人先生の講釈を聞きてより、家業を励み、勉むるやうになりしとなり。
講釈終り政胤祝儀として、白銀壱封進上しけるに、先生受け給はず、再三これを強ゆれども受けたまはずして曰、今度の往来(ゆきき)且滞留中の諸入用、そこもとよりせらるる上に、又祝儀とて請くべきやうなしとて、終に受けたまはざりけり。
京都の門人等、先生を迎ひに行き、講釈終りし日着しければ、政胤先生へ請ふて曰、迎ひに来たりし同門の者、当地はじめてのことなれば、一両日も滞留したまへかし。近辺の名所古跡をも、見せたしと申しければ、先生迎へに来りし門人へ、政胤志のごとくすべしと仰せられければ、門人答へていはく忝(かたじ)けなく候へども、遊山の望みもなし、唯帰京し給はんことを希ふと申しける故、翌日早朝に発足したまへり。帰京の後に、河内滞留中の事ども、門人へ物語したまふ上にて、此度河内にて政胤の祝儀を受けざりしは、礼の過ぐる故なり。ほどよき事いかんと問ひたまふ。門人各答へ申しける。先生曰、銀子一両、木綿手拭一つ。是此度の礼のほどよき物なりと仰せられけり。迎ひに行きし門人、他日先生の側にゐけるとき曰、何方にてもあれ、用事終りて遊山のために逗留することは、我好まざることなりとて、門人の滞留せざりしことをよろこび給へり。
㊵先生門人の請ひによって、著し給ふ書二部あり。其一部は平生人の問ひにこたへたまふ語の草稿なり。これを集めて一部と成れり。都鄙問答といふ。元文己未(つちのとひつじ)の秋七月梓に刻む。又一部は寛保癸亥(みずのとゐ)の秋の頃、門人倹約の常なることを聞き得て、是を身に行はんと、其聞得たる趣を書して先生に呈す。先生是をうけがひ許したまへり。それより門人専ら、倹約を行ひければ、ある人門人の俄に倹約を行うことを非なりとして、先生と論ず。此の論を書して一部となれり。斉家論という。延享甲子(きのえね)のなつ五月梓にきざむ。
㊶先生延享元年甲子秋、九月二十三日夜より病みて、同二十四日午(うま)の刻宅にて終りたまヘり。享年六十歳、平安の東南鳥辺山に葬る。歿(ぼつ)後宅に遺りし物、書三櫃。また平生人の問に答へ給ふ語の草稿、見台、机、硯、衣類、日用の器物のみ。
明和六年己丑(つちのとうし)九月 門人記之
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