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  • 執筆者の写真大和商業研究所

Web松柏舎 第2期第1講を終えて

『石田先生事蹟』には先生の農業指導場面

『事蹟』の輪読㊴を行いました。残りはあとわずか。来月で読了する予定です。

今回は梅岩先生が河内へ出講釈に出かけた場面です。『全集』の中ではわずか20行ですが、幾つかの驚きの描写があります。

①下館藩(常陸国、今の茨城県)の代官・黒杉政胤に招かれたこと。

武士、しかも代官という位の高い人物が、一介の農民・商人であった先生を篤くもてなし、高額の謝礼を払おうとした。江戸中期、士農工商の身分制度からすると、このような扱いは当時の秩序では考えられないことではないか。黒杉は藩庁に何と説明したか。先生を伊藤東涯クラスの位の高い儒者として奉ったのではないだろうか。

②先生が農業問題に言及するところ。

先生は10代から20代の前半にかけて、石田家の跡継ぎとして農業に専念した時期がありました。理屈屋の先生でしたから、営農に励み生産性向上に精を出されたことでしょう。若い頃に日々精進した農作業の片鱗を思わせるところがあります。

代官の家の庭に水を引いているのを見て、これは常にあるのかと尋ね、代官はそうですと答える。先生は「今は農家が水を求める時であり、私の暑さを避けるために引いたのであれば、農業の妨げになるからと尋ねたのだ」と細かいところまで目配りをするところを見せた。恐らく、代官は厳しい指摘だと肝を冷やしたでしょう。この文章からは伺いしれないが、ひょっとすると、先生の指摘が的を射ていたのかもしれない。

また「田の草を見たまひ、麻上下(かみしも)着しながら、泥土の中へ手を入れ草を取りたまひて、此の草は糞(こやし)を奪ふてあしき草なりと、門人へしめしたまへり」とある。先生の講義を受けて、村人達は家業に励むようになったとのこと。二宮尊徳の農業指導より100年程も前の話です。

③黒杉が領民教化のための報酬として白銀壱封を差し出したところ、先生は多すぎるとして断ったこと。これは先生のいつも主張している「取引の適正な対価」に反するということだろう。取引の適正価格の範囲を逸脱すると暴利を貪る、私欲を肥やす、賄賂とみなされるということだろう。前講でも「一身を捨てて成とも、道の行われんことが我が願いである」と語っている。言行一致を金科玉条とする指導者として、それは受け取れない金額であった。自己の慢心を恐れたのであろう。

石門心学組織の厳しい規約

弟子の手島堵庵、その子息の上河淇水は、後の心学舎組織において、講師が地方に指導に行く際の規則といて厳しい戒めを課し、講師にも受け入れ先も通達を行った。これも梅岩先生の日頃の行状・遺志からの判断であろう。

・講師は明倫舎発行の「琢磨札」「添え状」(正式講師であるという証明書)を持つ

・礼物、音物(贈り物)は受けない

・講師の宿泊に際しては木綿の夜具とし、絹の布団は用いない

・飲食は一汁一菜(酒席接待は無用)

・金銀の貸し借りは行わない


石門心学が300年の命脈を保ってきたのも、上記の如く、梅岩師の清廉厳格な志を門弟たちが尊び踏襲してきたからに他ならないでしょう。そんな精神を受け継いで参りたいと思います。

なお、次月から第3火曜日、19時~21時、Web懇親会は22時までです。

次回は5月18日(火)になります。

写真は、白木村陣屋跡(現大阪府河南町)


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