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  • 執筆者の写真大和商業研究所

石門心学風土記 第10回 美濃の国・謹身舎

更新日:2020年2月28日


ラスト心学舎 百七十番目の謹身舎

 幕末期、外周を世界の列強に囲まれた中で幕府・朝廷・薩長など雄藩による主導権争いが続く慶応元年(一八六五)十一月、加納城下(現岐阜市)に、最後の公認心学講舎・謹身舎が産声をあげた。「都講には森孫作等4名」(『石門心学史の研究』(石川謙、岩波書店)とある。(清水注:都講とは庶務統括者)。

 明倫舎発行の『諸国舎号』には最終百七十番目に謹身舎が載り、講師に河井長左衛門、都講に松波菊太郎、宮田吉三郎、森孫作、佐藤次郎九の名が見える。河井長左衛門は別名河井道美で大阪・敦厚舎所属の講師。都講4名は加納宿の重役。舎があった場所は特定できていない。

都講の森孫作の子孫宅を訪問

 舎の代表格である森家について資料に当たり、現当主を訪問することができた。当日、奥様共々、温かくお出迎え頂いた。心学者の子孫の方々は、徳望ある先祖の遺訓を継いで皆さん品格がある。見習いたいものである。古文書等一切は、先の大戦の大空襲で岐阜市街は灰塵に帰し、蔵も焼失の為、残っていない。なお、森家は江戸期、加納藩の脇本陣を務める家系であり、商業者としても和傘、呉服、郵便局長など、時代に合わせた職業を選択され、町に貢献してこられた。また漢詩・和歌・俳句など文人としても名を馳せている。

 脇本陣は中山道に面しているので、時代の流れにも敏感であっただろう。皇女和宮の御下向の接待役にも主要な役割を果たしたと記録が残る。

 先祖の一人をあげると、森家六代目永孝(一七五〇年没)は、仏教心深く、赤穂・盤珪和尚を招き大佐野村に金龍寺を創建。また和歌に長じ多くの歌集を残した。城下に名木「往来の松」があり、歌人を歴訪し、この松を讃ずる歌集を制作。これのみが戦火を免れ、現物は岐阜市博物館に寄託されたとのこと。湯島聖堂を建てた林信篤(鳳岡)大学頭の詩も含まれている。その貴重な復刻書をお預かりした。

岐阜市の心学講舎は三舎、岐阜県には十一舎

 

謹身舎以外に岐阜市に逢原舎、萬徳舎があった。逢原舎の舎主・丹羽氏祐(一七六五~一八二一)の『鸚鵡問答』は岐阜県立図書館で閲覧した。丹羽は町の大年寄として、弥八地蔵における加納藩・尾張藩の土地係争を円満解決した。萬徳舎は以前に舎主・亀山恭長の墓を正法寺(大仏寺)に訪ねた。美濃の国はとりわけ心学が栄えた地であった。

【参考文献】『加納町史・下巻』(大衆書房、一九五四年)、『岐陽雅人傳』(野田勘右エ門、一九三五年)、『往来の松』(森芳郎、二〇〇二年)

写真は『諸国舎号』より。

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