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  • 執筆者の写真大和商業研究所

心学風土記 第13回 武蔵の国 参前舎  

江戸・参前舎により武士階級に心学が広まる

中沢道二略伝(1725-1803)

中沢道二は江戸に参前舎を設け、石門心学の武士階級への弘布に多大な功績を残した。道二は商業者として刻苦修行を重ねる中で心学に出会い、江戸に梅岩哲学を拓く開祖者となり、武士階級を巻き込んだ功は堵庵に匹敵するものがある。

京都の織職を業とする家に生まれる。幼少時は貧しく学問をする余裕もなく、十二歳で同職の家に奉公に出される。家業の傍ら仏教の修行に励み、四十一歳の折り、西山等持院で禅師の法話を聞き、日々静坐工夫することにより、大悟に到る。

 その後、手島堵庵の門下に入り、その謦咳に接し更なる奥義を極めた。堵庵により江戸に派遣の任を得て、講説を開始した。天明三年(1783)に「参前舎」を設立。その後、老中松平定信の斡旋で、本多忠可(ただよし、播磨山崎藩主)、本多忠籌(ただかず、陸奥泉藩主)らが学び、心学大名と称され、たちまちのうちに武士階級に心学が普及した。また道二は江戸の人足寄場における教諭方も務めている。道二の講釈は人気を呼び、寛政三年(1791)の参前舎新築落成の記念道話には千人を超える聴衆が集まったという。道二は彼の道話そのままに、人心を集め和合に心血を注いだ。逝去当時、心学講舎は全国に八十二舎、うち道二による指導は二十四舎を数えた。

『道二翁道話』は、今なお岩波文庫から刊行されている。

明治以降も心学の大本山としての役割を担う

参前舎主は道二以下、錚々たる人物が、道統を繋いだ。第二代舎主は植松自謙と関口保宣が年番で務め、③中沢道輔、④竹田道跡、⑤中村徳水、⑥平野橘翁、⑦高橋好雪、⑧熊谷東洲、⑨長沼潭月、⑩川尻宝岑、⑪早野柏蔭、⑫山田敬斎、⑬伊豆山格堂、⑭田辺肥州(*現在、小山止敬)。             

同舎は心学の社会教化の役割が減衰した明治以降においても、梅岩先生、手島先生、中澤先生の命日には荘重なる祭典を催している。舎主の人脈で高松宮、谷干城、鈴木大拙、今北洪川らの後援を得、定例の道話会、静坐会など成人向け以外に、子供向け講座も開催し続け、定期刊行物として『心学道話』『心のまなび』などを発刊してきた。 一九二九年に心学開講二百年祭を開催のほか、二三〇年、梅岩先生生誕三百年、参前舎開設二百年などの節目の行事を主催してきた。二〇〇〇年には京都にて「心学開講二七〇年記念シンポジウム」を開催し、ロバート・ベラー、稲盛和夫らを招いた行事は語り草である。

現在は活動休止中

このように心学史上、画期的な歴史を刻んできた同舎が、二〇〇〇年代に訴訟問題に直面し、活動を休止していることが伝わってきた。時を置いて、私は二〇一四年三月に小山止敬舎主を訪ね、その顛末と現況を伺った。ことの経緯はいずれ明らかになるであろうが、参前舎の道二翁像や蔵書類は人手に渡ったままである。貴重な心学資料が元の所有者に戻り、再び往時の輝く舎として活動されることを切望する。

なお、世田谷区妙寿寺には中澤道二の墓がある(写真参照)。


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