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  • 執筆者の写真大和商業研究所

『石田先生事蹟』その四

㉒隣国に洪水ありし秋、月見の参会とて、先生門人に誘はれ行きたまひしに、其後ある人先生の許へきたりて曰く、隣国洪水ありて憂ふる人多し。しかるに月見の参会したまひしは、人の憂をうれひ給はざるにあらずやと申しければ、先生答へて曰、洪水を歎かざるにはらず。しかれども是は吾分に非ず。且毎年諸国一統に無事なる事は稀なるべし。是を歎けばとていかがすべき。門人常に集るには、不参の人もあり。集らざれば学問を退き易し。これを嘆くは吾分なり。吾分を行ふ故、親みある人を、邂逅(たまさか)になりとも集めんための参会なり。上(うえ)つかたと下(した)々の分を知りて混雑すべからず。


㉓先生曰く、吾無益の殺生をかなしみ、二十年このかた、沐浴洗足あるひは物のゆで湯なども、あつきは水を合せて流し、地中の虫の死せざるやうになせり。此事十に七つは行ひ得たり。しかれども是鎖細(ささい)の事なり。何とぞ貪る心を止めんと志せし故に、吾自炊(てせんじ)し、欲心の出来ぬやうにと常にこころを尽くせり。かくのごとくすれば、わが如き柔弱者も無欲になれば、少しは人の心を助くる便ともならんかとおもへり。


㉔先生曰く、吾が身には忠孝なけれども、常に人の不忠不孝をなほしたく、一人なりとも、教へ導きたしと思ふ事病となれり。


㉕先生へ或る人問ふて曰、今の学者は性理に心をよせずと譏(そし)らるるは、其許(そこもと)の身正しき故か。少しも正しからざる所あらば、不可ならん。先生答へて日、われ他を譏るにはあらず、学問の本意を知らざることを歎くなり。是を譬へば、今爰(ここ)に君を殺害せられし臣多くあらん。其中に今の学者は勇力ありて、讐(あだ)を報ゆる志なきものの如し。吾は讐を報ゆる志あれども、腰ぬけし者の如し。其訳は吾晩学といひ、不才といひ、柔弱不徳にて行ひも潔からず、うすうすと性善なるを知るばかりなり。何とぞ是を人に知らしめんと志せども、下賎の者のいふことなれば、尤も也と聞く人稀なり。是れ腰ぬけが君を讐を報いんと志せども、あたはざるがごとし。又今の学者は若年より学び、博学多識、あるひは仕官し、世にしらるる故をもつて貴き人多し。しかるに文学に耽り、性理は学の本にして堯舜天下を治めたまふも、性に率ふのみといふ事をしらず。しらざるは勇力ありて、讐を報ゆる志なきがごとし。是れ等の人、性をしらば、道を興すべきものをと思ひ歎くなり。


㉖先生常に門人へ自己の性を知るべき由を説給へども、是れを信ずる者わずかに二三人なりしが、中にも斎藤全門(ぜんもん)ふかく信じ、日夜如何いかんと工夫を凝らしけるに、ある夜ふと太鼓の音を聞きて性をしれり。爰(ここ)においてますます信を起し、日々に養ひしかば、漸くにしで徹通(てっとう)せり。故に全門信を尽くし、朋友を助くれども、猶志立たざりける。木村重光は、初めより篤く信じけるゆゑ、年月をかさね、工夫熟せしにや、或る冬障子を張りゐて、頓(とん)に自己の性を知り、大いによろこびて、先生の許に到り、自ら得る所を呈す。

はつといふてうんといふたら是は扨(さて)はれやれこれはこれはさてさて

先生此時重光の性を知ることを許し給へり。是より門弟子端的に性をしることを実に信じ、工夫に心を尽くし、信心髄に徹しぬれば、おのおの寝食をわすれ、或は静座し、あるひは切に問ひ、日あらずして性を知る者おほし。


㉗先生門人の性を知れる者に告げて曰く、学は為すところ、義か不義かと省みて、義にしたがふのみ。義を積まずして、性を養ふことは、聖人の道にはなき事なりと、常に示したまへり。


㉘先生日、われ生質(うまれつき)理屈者にて、幼年の頃より友にも嫌はれ、只意地の悪きことありしが、十四五歳の頃ふと心付て、是を悲しく思ふより、三十歳の頃は大概なほりたりと思へど、猶言(ことば)の端にあらはれしが、四十歳のころは、梅の黒焼のごとくにて、少し酸(すめ)があるやうにおぼえしが、五十歳の頃に到りては、意地悪き事は大概なきやうにおもへり。


㉙先生五十歳の頃までは、人に対し居たまふに、何にても意にたがひたる事あれば、にがり顔したまふ様に見えしが、五十余りになりたまひては、意に違ひたるか、違はざるかの気色、少しも見え給はず。六十歳の頃我今は楽になりたりとのたまへり。


㉚先生の母故郷より折々登りたまふことあり。春の頃なれば、祇園清水などへ供し、或は芝居へも伴ひなぐさめ給へり。母へ語りて日、我京都に住むといへども、芝居など見ることはまれなり。其訳は我に因(ちな)み来る人の手本になればなり。母の上京したまへばこそ、かく緩々(ゆるゆる)と見物するなりとのたまひければ、母も悦びたまひしとなり。


㉛先生三十二歳の時父終り給ひ、母は先生五十二歳の時終り給へり。喪に悲しみを尽くしたまふ。


㉜先生の講席へ出る禅尼ありしが、ある年大和巡りして、女の参るまじき所へ参り、道の記など持来り、先生へ見せければ、其席にて再び来ること勿れとて、退けたまへり。


㉝元文戊午(つちのえうま)の夏、先生門人五六人同伴にて但馬へ入湯に行きたまひしが、先生彼地にても昼夜都鄙問答の校合し居給ふ。ある日、門人と共に小舟に乗り、瀬戸など見めぐり沖へ出給ひしに、北はかぎりも知らぬ海なるが、俄に風烈しく吹き起こりければ、門人大いに驚き恐れける。先生は従容(しょうよう)として居たまへり。扨後(のち)が島といふ巌(いわお)重りたる小島に船をよせ、のぼりて眺望し給ふ。漸く風もをさまり波静かになりて、海の面(びょうびょう)たり。其時先生大海のかぎりなきを指さし、人身のすこしきなることを示し給ふ。門人ここに益を得たり。


㉞元文戊午の夏大旱(おおひでり)にて、上下(しょうか)ともに雨乞ひの祈りありしに、先生も日々沐浴(ゆあみ)して、ひそかに雨を乞ひ給ふ。七月二十一日の夜より大いに雨ふりて、貴賎のよろこび限りなし。其日近辺の門人の宅へ、先生を初め門人集り、雨の悦びをなしゐけるに、少し風吹出でければ、先生何とやらむ不予の色ありて、我は暫しが間宅へ帰り、又来るべしとて、其座を立出で給ひ、しばらくありて来りたまふ。門人等其帰り給ひしゆゑを問ふ。先生曰、風吹出けるまま、天を仰ぎ見るに、雲西北にゆく気色あり。是れ風を起すのきざしなり。かくのごとき大雨の時、もしはげしき風あれば、作物を損ふこと甚しきものなれば、帰りて沐浴しひそかにかく祈りしと、そのことの葉に

 雨を乞ひ風しづかにと祈るなり

 まもらせたまへ二柱の神

何方(いずかた)にても火事あれば、先生心を労したまへり。是は人の難儀、且財宝の滅することをいたみ給ひてなり。ある年の冬の夜、下岡崎村に大火事ありしに、寒中といひ夜中といひ、食乏(とも)しくては堪へがたかるべしとて、夜半に門人を催し、飯をたき、にぎり飯とし、門人を伴ひ、彼(かの)岡崎に持ち行きて、難儀なる者にことごとくあたへたまへり。


㉟先生の宅へ門人四五人集りゐける折ふし、同門人一つの獺(かはうそ)を持ち来れり。割(さ)きて人毎に頒(わか)たんとおもひけれども、いつれも為慣(しなら)はざることなれば、いかがすべきと申しあひける。先生もしならひたまはざれども、小刀をよく研ぎ、かの獺を割きたまふに、やすくさきてわかちたまふ。



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