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執筆者の写真大和商業研究所

石門心学風土記 第33回 越後の国 越後騒動と小栗了雲の運命

将軍・徳川綱吉の誤裁定で越後高田藩は改易、小栗美作父子切腹

文献には「了雲の父正宗、大宗美作の事に座す」とある。美作とは越後高田藩の筆頭家老・小栗美作。「越後騒動」の首謀者とされた。

この騒動は藩主・松平光長の後継を巡る長い争いの末の悲劇であった。光長に実子はなく、後継を光長の甥と弟が競った結果、幕府・酒井忠清大老の裁定で甥の万徳丸に決定した。しかし弟である永見大蔵を推す勢力がこれに異を唱え、小栗美作と対立。大蔵側は、美作が子息・小栗大六を藩主の後継に据えようとしていると根も葉もない訴えを幕府に起こした。美作の妻は光長の妹であり、大六は光長の甥にあたった。

高田藩の後継者問題は将軍に就いたばかりの徳川綱吉が直接裁き、光長は改易・松山藩預かり。小栗美作・大六親子は切腹。美作の弟は遠島、甥は他藩預かりとなった。

綱吉は自身の将軍世襲時に反対した高田松平家への怨恨と、家格(光長は家康次男の結城秀康直系)への引け目から、将軍としての権力を誇示し禍根の一掃を図ったと推測する。後に美作父子への処分は冤罪と判明した。

小栗一族は、女子と美作に縁の薄い四親等以上男子は罪を逃れ京都に身を寄せる。私は上越市における現地調査より、正宗=主殿であり了雲の父と推測した。

【小栗一族家系図】

(略)

了雲は京都にて禅修行後、私塾で梅岩を育てる

文献によると了雲は「黄檗宗の禅学を修め、師は不二庵主禮柔禅師」とある。不二庵は万福寺の塔頭であり、了雲はここで修行し、後に老師となったのである。了雲は自身の私塾で梅岩との運命的な出会い(邂逅)があり、武士の立ち合いよろしく聖人同士の「切り結び」で了雲は終焉を迎えた。梅岩は師の屍を乗り超えて、商人のみならず士農工においても精神的支柱となった。越後において辛酸を味わい尽くした了雲の体験は、山城にて梅岩という花を咲かせたのであった。写真は小栗美作の墓所。

文献】①『仙台小栗氏考』②上越市公文書センター資料を元に筆者作成



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