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執筆者の写真大和商業研究所

5月度松柏舎ZOOMにて開催、FBに石田梅岩(石門心学)頁開設

5月度松柏舎ZOOMにて開催、FBに石田梅岩(石門心学)頁開設

会場大阪市中之島公会堂が使用できませんので、会場での開催は延期と致します。

代って先月に引き続き、5月25日(月)18~20時、ZOOMにて「松柏舎」(大和梅岩力講座)を開催します。

パソコン、スマホでも、インターネットによる接続で通信が可能です。

「緊急事態宣言」は全国で解除となり、心理的にも晴れやかな気持ちになって参ります。

一方で、他国の事例に倣うと、第二波、第三波への警戒を怠らないことが、感染を長引かせない要諦です。転ばぬ先の杖、引き続き留意して参りましょう。

また、フェイスブックに竹花敏明さんにより「石田梅岩(石門心学)」のページが開設されました。どうぞご覧ください。

なお、一例として5月18日の私の寄稿文を以下に載せます。ご参考まで。

◆「善に化する」とは何か

竹花敏明さんが、『都鄙問答』の第一巻「商人(あきびと)の道を問の段」の全文、PDF版をアップされ、この中から「惜しむ心を止め、善に化する」の重要性に着目し、パワーポイントでわかりやすく図表化して自身の見解を述べられた。それについて、私の意見を披露したので以下の文章です。

私もこの段を読み直し「本当に素晴らしい文章だなあ」と、改めて感動しているところです。

「商人の道を問の段」は『都鄙問答』全16段の中でも2番目に短く、14行(岩波文庫、以下同じ)とわずかです。しかし短い中に珠玉の言葉が綴られており、商人道を説く梅岩先生にとっては、第二巻の「或る学者、商人の学問を譏(そし)るの段」(18頁)の序文ともいえましょう。

私はこの段では、「富の主(あるじ)は天下の人々なり」とこの「惜む心を止め、善に化するの外あらんや」が、ひときわ輝いていると思います。

一行一行にコメントを書きたいところですが、「善に化するの外あらんや」を中心に、私の思う所を述べます。

私は以前に、この段を読んで、唐突に「善」が出てきた感がして、これは一体何だろうと、考えてみたことがありました。「善」という文字は、この段にはここ1箇所で、長文の「或る学者、商人の学問を譏るの段」でも5箇所しかありません。しかもそれは「積善の家には、必ず余慶あり。積不善の家には、必ず余殃(よおう)あり」という諺が中心であり、善の説明ではありません。

「善」は何処に書かれているか。それは第三巻「性理問答の段」にあり、『都鄙問答』の根幹を為す段です。この段では或る学者が先生に性善とは何か、孟子の口真似をしているだけではないのかと詰問するところから始まります。それは27頁と最長文で、善が88箇所、性善は30箇所出てきます。

『都鄙問答』の段の配置、長短より自ずと先生の狙いとした本著のストーリーが理解できます。主たるテーマが「性を知る」つまり「性善とは何か」を会得することにあると解ると、「善に化する」の「善」は「性理問答の段」でいう「性善」にあると察しがつきます。

『都鄙問答』の段では、善・性善について様々な方面から説明されています。その幾つかを取りあげましょう。

◆孟子の性善とのたまうは、心を尽くして、性を知り、性を知る時は、天を知る。天を知るを、学問の初めとす。天を知れば、事理自ずから明白なり。此を以て、私なく、公にして、日月(じつげつ)の普(あま)ねく照らしたまうがごとし。(79頁)

◆心を得るを、学問の始めとし、終りとす。呼吸存する間は、心を以て性を養うを、我(わが)任とすることなり。少しにても、仁愛を行い、義に合(かな)えば、安楽なり。我心の安楽になるより外(ほか)に、教えの道あらんや。我心に得ざることを、偽りを以て、得たる顔つきしたりとも、それは偽りなりと、受けつけぬ心有るゆえに、苦しむなり。(80頁)

◆聖人の道は、天地のみ。天地は、見えたる通りに、淸(す)めると濁ると有りて、天は淸めり、地は濁れり。淸める天も、濁れる地も、何方(いずかた)を見ればとて、物を生じ養うべきともも見えず。無心なれども、萬物生々して、古今違(たが)わず。其生々を繼ぐ物を、善と云う。(76頁)

この「性理問答の段」を読んで、「商人の道を問の段」を読むと、商人として売買をする上で、いかにしたら道に叶うか、事業をする中で仁義を行い、売り手も主も共に心が安楽になることを説いているとわかります。

一銭を大事にして、冨を為すことが商人の道であり、その富の主(あるじ)は天下の人々なり、つまりお客様です。自分で稼いだと思ってはいけません。「私が稼いだお金だから、何に使おうと勝手だ!」などと言ってはいけませんよということです。

主(天下の人々)の心も私の心も同じであるから、私が倹約に励み、非の打ち所のないところまで売り物に念を入れて、販売という行為を行なえば、買う人の気持ちも、最初は金銭を出し渋っていても、商品の素晴しさに、金銭を惜しむ気持ちが自然と失せてくる。

この時の買う人の心の変化が、「惜む心を止め善に化した」一大転換のときであるわけです。竹花さんの図の、売り手と買い手の心が共鳴し一体に溶け合った瞬間です。そこで売り手が性善であれば、買い手も性善になるわけです。常に「私なく公にして、日月の普ねく照らす」如く、商人・サービスに念を入れれば、買い手もそれが解ってくれます。松下幸之助は新製品を出すときは抱いて寝たといいます。私の前職のスーパーの創業者も梅岩先生の語る如くの聖人で、お客様や従業員のために寝食を忘れるという方でした。直接にお言葉を頂き、今日まで心の糧になってきました。

「善に化する」の後に続く文では、「且(そのうえ)、天下の財宝を通用して、万民の心をやすむるなれば、天地四時流行し、万物育(やしな)わるると、同じく相合(かな)わん。此のごとくして、富、山の如くに至るとも、欲心とはいうべからず」とあります。

商道が単なるモノの取引ではなく、「万民の心を休める」ためであるという表現があり、ここでも性を善に化することにつながります。

拙訳では「売り手が資本を回転させての売買により、全ての人々の気持ちを安らかにするということは、孔子が論語陽貨編で語っている、四季は巡り万物は成長するという、天地自然の理と同様です。結果として財産が山のように蓄積したからといってそれは欲心からではないのだ」としました。

欲心から出た私我の利益を万民は許容しません。梅岩先生は、得た富の使い方について『斉家論』で厳しく諭しています。

続いて「天下太平を祈る」「御法を守り、我身を敬(つつしむ)べし」。そして「商人というとも、聖人の道を知らずんば、同じ金銀を儲けながら、不義の金銀を儲け、子孫の絶ゆる理に至るべし。実(まこと)に子孫を愛せば、道を学びて、栄ゆることを致すべし」と結ばれている。

梅岩先生以前にそして以後も、古今東西、商人にこのような聖人になれと説いた人物はいたでしょうか。荒唐無稽とも受け取れましょうが、その教えを受け継いだ門弟、商人、そして明治以降においても経済人の中から、共鳴を受けた人物が多数輩出し社会に一石を投じ、今日まで心学が脈々と受け継がれているわけです。

仰ぎ見るほどの高邁な目標ではありますが、先師の訓えに接した者の義務として、学び伝えていきたいと思っています。

なお『都鄙問答』の引用は、萬吉萬代氏の文字起こし文より拝借しました。ここに御礼を申し上げます。


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