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都鄙問答の段 解題

『都鄙問答』の段 解題


1.冒頭の言葉の追加により『都鄙問答』に無限の明るさが点燈

当初の書名『田舎問答』から、『都鄙問答』に変更された。

また、「都鄙問答の段」の最初に、易経の言葉が加わった。

これにより、格調が高まり、全体として梅岩教の持つ無限の輝きと明るさが灯ったと言えよう。夜道において、人を導く常夜灯である。

冒頭の文言は「大なるかな乾元、萬物資(と)りて始む。乃ち天を統(す)ぶ。雲行き雨施して。品物形を流(し)き。乾道變化、各(おのおの)性命を正す也。天の與ふる樂みは、實(げ)に面白きありさま哉。何を以てか、これに加へん。」となった。『易経』乾之彖(たん)伝)からの引用である。

『易経』(岩波文庫、82頁)では、次のように訳されている。

「偉大なるかな、乾元(けんげん)のはたらきは! よろずの物はこれをもととして始められる。言うなれば天道の全体を統(す)べるのは乾の元徳である。この乾元の気はやがて雲となって流行し雨とな

って降りそそぎ、ここによろずの物もその形体を備えるにいたる。」

なお「乾元」とは、「乾」は天の意。万物を造り出すという、天の理。(『日本国語大辞典』参照)

 江戸中期の学問と言えば儒教であり、石田梅岩邸の玄関とも言うべき『都鄙問答』の表札に、易経を用いたことは、儒者として堂々の名乗りを上げた宣言である。

 「乾元(けんげん)」とは、全ての始まりを言う。天道の全体を統一している根源である。

実りがある。

「貞(てい)」は正しい。実りが正しいものであれば、それは堅く守られていく。

「元亨利貞」は、乾の働きに従って正しく行なうならば万事順調に進むことを教えている。

これは易経の教えの根幹である。

また、これはそれぞれ春夏秋冬にあてられる。

春に生じたものが、夏に大きく育つ。

秋に豊作となり、実る。実ったものが固くなって、やがて落ちて大地に還元される。

この無窮に繰り返す変化の原理原則が「元亨利貞(げんこうりてい)」。

これを「常態」といい、物事の成就の道を示している。

一方、原理原則に外れるものは「変態」であり、中途挫折の道となる。

「元亨利貞(げんこうりてい)」は、原理原則に従う大切さを教えているのである。


2.自伝が含まれているのは冒頭のこの段のみ

(1)実家と地域の農村経済事情が解せる

◇『都鄙問答の段』(岩波文庫9頁)【現代語訳】

(故郷の人)人を惑わすことの罪は、山賊、強盗より大きい。余りにばかばかしく思い、今ここで申し上げている。あなたが故郷へ帰って、生活をすることくらいは、たやすいことだ。一人が生計を立てるために、人を迷はすのは悲しいことだ。

◇一般的に、農家の次男は地域に居ても収入の道は無いが、ここでは「生活するのはたやすいこと」と言っている。あてもなく言っているのではなく、石田家の資産・収入、あるいは地域の働き手の状況も加味しての発言であろう。

◇この文章より石田家の資産は、それなりに裕福であることを示している。これは、現在の所有不動産から見ても合致していると言えよう。また、地域においても、石田家との良好な関係性を示している。

◇むしろ、世間からの悪評を恐れ、石田家及び村(東掛地区)の恥となるような行いはするなという、村人の代表する使いであることが想定できる。


(2)了雲との出会い~20年来の疑いを解く~

◆『都鄙問答の段』(岩波文庫12~13頁)

「都鄙問答の段」は1回目の開悟を扱っている。

一方『石田先生事蹟』⑤では、1回目と2回目の開悟を語っている。

なお、⑤後半の2回目の開悟は、時系列的に言えば、⑥~⑧の了雲没後の内容である。

『石田先生事蹟』⑤~⑧には以下の通り、記述されている。

先生三十五六歳の頃まで、性を知れりと定めゐたまひしに、何となく其性に疑ひおこり、是れを正さんとて、かなたこなたと師を求めたまへども、何方(イズカタ)にても師とすべき人なしとて、年月を歴(ヘ)給ひしに、了雲老師にまみえ給ひ、性の論に及び、先生みづからの見識を言はんとしたまふに、卵をもって大石にあたるがごとく、言句(ゴンク)を出し給ふことあたはず。爰(ココ)において悦(ヨロコビ)服し、師とし事(ツカ)へ給へり。其後は日夜他事なく、いかんいかんと心を尽し、工夫し給ふ事、一年半も過ぎたる頃、母病ひに臥給ふ故、故郷へ行きたまへり。其時先生四十歳ばかりなり。正月上旬の事なりけるが、母の看病し居たまひしに、用事ありて扉(トボソ)を出でたまふとき、忽然(コツゼン)として年来のうたがひ散じ、尭舜の道は孝弟のみ、鵜(ウ)は水を泳(クグ)り、鳥は空を飛ぶ、道は上下に察(アキラカ)なり。性は是天地万物の親と知り、大いに喜びをなし給へり。

其後都にのぼり師にまみえたまひ、礼終りて、師工夫塾せるやと問ひたまふ。先生対(コタ)ふるに、如是如是といひて、きせるにて空を打ちたまひければ、師日、汝が見たる所は、有べがかりのしれたることなり、盲人象を見たる譬(タトエ)のごとく、あるひは尾を見、あるひは足を見るといへども、全体を見ることあたはず、汝我が性は天地万物の親と見たる所の目が残りあり、性は目なしにてこそあれ、其目を今一度はなれきたれとありければ、先生それより又日夜寝食を忘れ、工夫したまふ事、一年余を経て、ある夜深更におよび、身つかれ、臥したまひ、夜の明けしをもしらず、臥しゐ給ひしに、(後ろの森にて)雀のなく声きこえける。

其時腹中は大海の静々(セイセイ)たるごとく、また青天の如し。其雀の啼ける声は、大海の静々たるに、鵜が水を分けて入るがごとくに覚えて、それより自性見識の見を、離れたまひしとなり。

⑥先生嘗て半年ばかり、師のもとへ立ちよりたまはざりしかば、或る老弟子師へ申すやう、彼はかならず人に秀でたる者なるべし、師あまりにきびしき故、はなれたりと見ゆ、惜(オシイ)哉(カナ)と申しければ、師かれが事はかまふべからずとのたまひて、何の気色もなかりしとなり。

⑦先生師の側に居たまひしに、師日く、汝近年に宿をも持つべし、其の用意なく、唯学問ばかりに、月日をすごしてもいかがなりとありしに、先生対へて、吾は長者になるべしとのたまへば、師よろこびたまひしとなり。

⑧先生師の看病しゐたまひしに、師たばこをのまんと乞ひたまひければ、先生承り、たばこに火を吸ひつけ、きせるの吸口をそと紙にてぬぐひ、指し出したまひけれぱ、大いに師の心にたがひ、師曰く、汝がなす所かくのごとくなれば、我が看病を、さぞむさくおもふらんとて、即時に先生を退け出したまへり。

其時師の看病する者は、先生唯一人なるに、少しも近付けたまはざりけり。先生力なく次の間へ退き涙ながしたゐたまふ。翌日同門の老弟子来たり、師へ先生のあやまちを、佗(ワビ)言(ゴト)せしにより、やうやく許されて、またつかへたまへり。

其の後一両日に、師病ひ重り(オモ)、終わらんとしたまふ時、自ら註を加へし書どもを、授け与ふべしとありければ、先生ほしからずと答へたまふ。師日く、いかがしてほしからぬぞと間ひた先生対(コタ)へて、われ事にあたらば、新たに述ぶるなりとのたまひければ、師大いに歎美したまひしとなり。


(3)農業に従事したからこそ、農民の心得を語れる

 梅岩と質問者の共通の職業、農業の体験談を事例として語っている。

(岩波文庫15頁)現代語訳

農民ならば、朝は未明から田畑に出て、夕方には星を見て家に入り、自身の体を働かせて人を使い、春は耕し、夏は草を取り、秋の収穫に至るまで、田畑から穀物を一粒でも多く作ることを忘れず、年貢に不足がないようにと思い、その余りをもって父母の衣食の足しにし、安楽に暮らせるように養い、全ての物事に油断なく努めるとき、身体は苦労するが、邪な心が無いために、心は満ち足りている。

自分勝手にふるまい、年貢が不足するときは、心の苦しみとなる。

私が教えるところは、心を知って身に苦労して努めれば、日々に安楽であることを知らしめることだ。心を知って行うときは、自然と立ち居振る舞いが正しくなり、安らかさに至れば、何の疑いがあろうか。


(4)自身が正規の学問(とりわけ詩文などの学問)を受けなかったことを率直に吐露している

(岩波文庫17頁)現代語訳

私は文学において劣っていることを悔やむことはあるが、一般の家に産まれ、家が貧しくて、学ぶいとまもなく、40歳を過ぎてから、学者の道に志した。どうして文学まで至ることができようか。

ただ、恥ずかしいことだが、どこへ手紙を送っても、文字の誤りが多い。読む人は、これを許されんことを願っている。


3.この段の結論

 16~17頁の二つの回答はこの段の結論にあたる。

(1)孟子が言っていることは私の心と合致している

(岩波文庫16頁)現代語訳

今、私が言っていることは、「性を知ることを先とする教えだ」。性を知れば、実行に至ることが容易となる。孟子も人を導くときは、性を知ることを先として教えている。したがって最初から「性は善なり」と言っている。

 これは孟子の発明(初めて述べたこと)であって、それ以前の聖人(孔子)は述べていない。(『孟子』序、程子曰く)

 (性を)知って行いに至ることは早い。行ってから(性に)至ることは遅くなる。従って、性を知ることが先だとしている。

 今、私が教えている方法も、このことに倣っている。規範の無い道を弘めているのではない。

私のより所としているのは、孟子が「心を尽くし、性を知るときは、天を知る」と説いている。これが私の心と合致しているので、疑いなく、教化するもととしている。

 「聖人の道を観ることは、必ず孟子より始める」と、序説に書かれている。


(2)性を知ることが先で、学問は末である

(岩波文庫17頁)現代語訳

元より、儒者は政治に関わる者である。『論語』にも、仁や政(まつりごと)の問いが多い。詩作や文章に言及することは少ない。

孔子は、徳に至り、仁を全うすることを教えている。孟子は、その仁を知ることを教える。従って、心を尽くし、性を知ることを、説いている。文学は末であることが明かである。

そうであるのに、詩作や文章ばかりを、儒者の仕事のように思うのは、誤りである。孔子はいわれた。「『詩経』の三百篇を暗誦(あんしょう)していても、これに政務を与えても通じが悪く、四方の国々へ使いに行っても一人で対応することができないのでは、たとえ(三百編もの暗誦が)多くとも、何の役にも立とうか。」一人で対応するのは心である。詩三百を暗誦することは文学である。 

和漢(日本と清国)ともに、小事をこだわる者は多いが、大事に着目する者は少ない。文学を誇るのは心が狭い。文学も道の助けを成すのであれば、捨てることはない。



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