top of page
  • 大和商業研究所

石門心学風土記 第38回 播磨の国 孝徳舎

孝徳舎(姫路市)の子孫が心学明誠舎で学ぶ

大阪の心学明誠舎の舎員に飯塚修三氏が居る。彼は姫路の「孝徳舎」の現舎主である。西宮市で眼科医を開業中。私の主宰する「大和梅岩力講座」に何回か参加されるほか、多くの「古文書」を所蔵されるなど熱心な郷土史家だ。

数年前、飯塚さんより現存の「孝徳舎」が住む人が無く取り壊す為、現地案内の申し出があり、明誠舎一行十四名で訪問した。JR姫路駅からバスにて、岡町で下車し「宮本百合子文学碑」を見て「孝徳舎」へ。飯塚氏のご尊父が植えられた桜並木が美しい。重厚な門構えで、土蔵、井戸が残り母屋は虫籠窓のある天保期の二階建て建造物である。江戸時代に心学舎中がこの建物に集って学んでいたかと思うと、時を超えて同じ場に居る高揚感が湧いてくる。姫路文学館、千姫天満宮も近く、姫路城も徒歩園内だ。

幕末、姫路藩内に心学が栄える

『石門心学史の研究』(石川謙著、岩波書店)によると「天保四年、柴田鳩翁来講。月番家老の招請による。河井寸翁・高須隼人等、共に心学を聴き、かつこれを奨励後援せり。天保末年(14年=1843年か)姫路に孝徳舎成る」。

 『姫路市史』には「天保四年、鳩翁は姫路藩の招きを受けて(中略)姫路城下で四十日間心学道話を講じ、その席には河合寸翁・高須隼人ら藩首脳も列なり聴講している。その後間もない天保五・六年頃、辰井六郎兵衛(赤鹿歓貞・あかしかよしさだ)・真太郎(歓喬)父子は心学に傾倒し、「歓貞道話」五巻をはじめ十数冊の道話講義録を残した(飯塚家文書)。このようにかなり熱心な信奉者であったことが窺える。その後、六郎兵衛は橘若水・北後金兵衛らとともに三舎印鑑を受領し、播磨心学を支える一人であった」。右記三名は、明篤舎(姫路市二階町、天明期創設)講師でもあった。

これらによると、天保年間には姫路藩が心学による領民教化を主導していたことがわかる。

また飯塚氏は『西宮市医師会会報』(2006年1月号)に先祖の赤鹿歓貞について次のように寄稿している。「享和二年(1802)生まれ、家塾・孝徳舎を営み、門人に読み書きそろばんの他に、天文・暦法・真砂流柔術を教えた。慶応二年(1866)没。明治になり苗字は変わったが飯塚家の先祖である」。

なお、歓貞は天保四年に地球儀を作っており、これは日本で二十二番目の古さである。

孝徳舎の跡地は現在駐車場として活用されている。いずれ時節を得て、播磨の地にも心学による社会教化が復興することを願う。



閲覧数:4回0件のコメント
bottom of page