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石門心学風土記 第36回 大和の国 中村直三と実行舎

早くから心学が栄えた大和

大和の国は、手島堵庵の統率の下に早くから心学が普及した。京・大阪の影響を受け、近江・丹波と鼎立する重要な心学国であった。舎数は七舎で、国別七位、県別で八位と上位だ。

天明・寛政期に篤敬舎(宇陀市)、正誠舎(橿原市)、思明舎(天理市)、本立舎(天理市)ができたが、文化・文政期には廃絶。その後、大阪・明誠舎の山田俊卿、岡本孝道の指導の下に、安政・万延期に求仁舎(御所市)、友直舎(御所市)、明徳舎(大和郡山市)が新設。思明舎、本立舎が再興するなど、再び心学熱が点灯した。

岡本孝道は安政五年(1858年)以来、度々大和に遊説し、三か年足らずに、十数箇村に亘って三十七回の講席を開いている。

大和心学の中興の祖・中村直三

幕末から明治にかけて心学の復興に力を注いだのは中村直三(1819~1882)である。直三は、山辺郡永原村(現天理市)の農家の長男に生まれる。祖父・父は村の治安維持・農事改良に携わる役職で、直三も跡を継いで同職に就き、用水問題、麦作の奨励、肥料の施し方、稲の品種改良などに取組み、後に、群馬県船津伝次平香川県奈良専二と共に明治の三老農と呼ばれることになる。(老農とは農書に基づいて在来農学を研究し、これに自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた農業指導者のこと)。

中村は心学を通じ農民が農業に励むよう計画し、農事改良の一助にしようと考えた。かつて「奈良段階」という言葉があった。奈良県は明治後期から昭和初期まで単位面積当たりの収量が全国一で奈良段階と呼ばれた。その基礎は間違いなく直三が築いたものだ。彼の農業技術小冊子『伊勢錦』(1865年)には、協力者として明誠舎及び大和心学七舎の関係者名が記載されているという。彼が当時の奈良の心学舎全てと関係性を保ち、農業技術と心学再興とを連動させていたことが読み取れる。  直三は自ら実行舎を主宰し、岡本、山田らを招き、心学講舎の再興・新設に力を注いだ。クラーク博士の教育理念「右手にペン、左手に鍬」をもじって言うと、直三の理念は「右手に心学道話、左手に鍬」であった。一人の人間が心学弘布と実業界の両面で、これほどの大仕事をした例は極めて希有である。

 なお、直三と天理教創始の中山みき(1798~1887)は同時代を生き、住まいは極めて近い。天理教の教典『おふでさき』と心学道話は共通する要素があるという(金子昭天理大学教授)。明治五年、教部省の「三条の教則」により、宗教団体は神道・仏教のいずれかの選択を迫られ、心学舎の多くは神道に属した。天理教の一部では、心学講舎に仮託して布教を続けた。

直三は現役で活躍中の一八八二年に、コレラに罹患し逝去されたのは惜しまれてならない。大和の国の心学を教導した中村直三の偉業を、今こそ後世に伝えて参りたい。

(写真は天理市にある「篤農家 中村直三採種の田」碑)


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