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石門心学風土記 第34回 長門の国 吉田松陰と石門心学

執筆者の写真: 大和商業研究所大和商業研究所

松陰、幼少期に奥田頼杖の心学道話を聴く

 天保六年(一八三五)の夏、萩の城下は奥田先生(清水注:広島の奥田頼杖、著名な心学講師)の来講というのが大評判となって、毎日毎夜「日章舎」は聴衆戸外に溢るるばかり。中に年齢僅かに五、六才位の眉目秀麗な一少年が毎講早くから来て、熱心に講義を聴いている。紋付羽織・袴を着し由緒ある武家の生まれと知れる。舎の人も感心して入舎を勧めた。

少年は「私は山鹿流の軍学を教授する家で、既に定まった家業があるから、心学に入舎することはできません」。舎の人は「それならば御越しになっても、将来の見込みもないことだからいっそ聞きにならぬがよいでしょう。」之を聞いた少年は俄かに形を正しくして、「それは又意外なことを聞くものかな、私は入舎は家の資格上出来ないが、聞いて良いと思ったことは、自分にも行い人にも勧めて行わすようにする。苟(いやしく)も心という字を目当にする人が、舎に就かねば聞かせぬというような、了見の狭いことをいうものではありません」。この毅然たる申し聞かせに舎の人も大いに恥入った。

 後で調べたところ、藩校明倫館の軍事師範・吉田家の養子・吉田松陰であることがわかった。

(『松陰逸話』参照、香川政一著、一九三五年)

松陰六歳(現在の満年齢では四歳)であった。

栴檀は双葉よりも芳し。満四歳の子に心学道話が理解できるのかという疑問もあるが、松陰にはそれができたのである。頼杖の言葉が体に中に、沁み込んでいったのであろう。

妹たちへの手紙に「心学本を読みなさい」

その後の松陰が石門心学をどう活かしたか定かではないが、自身の心の中に持ち続けていたことは晩年の手紙で判る。親族の身を案じ、心学を学びなさいと度々書簡に記している。

妹・千代へ「心学本なりと折々後見候えかし。心学本に『のどかさよ願ひなき身の神詣』神へ願ふよりは身で行うがよろしく候」「小田村(妹・寿=小田村伊之助、後の楫取素彦の妻)久坂(妹・文=久坂玄瑞の妻)なんどへも此の文御見せ」(以上安政六年四月十三日)、「心学本、間合い間合いで読んでみるべし」(五月十四日)。いずれも野山獄からの手紙で、最後のは江戸送りの出発前日に書かれており遺言ともいえよう。幼少期に聴いた奥田頼杖の道話が心の奥底に残り、後進に伝えたかったのであろう。

頼杖の『心学道の話』に同様の以下の文章がある。

古い句に、「長閑(のどか)さよ願ひなき身の神詣」と申す句が御座りますが、是が誠の君子の行いじや。又、銘々どもは「さわがしや願ひある身の神詣」というもので、願いがなければ、神仏へも、滅多に、頭は下げぬ気じゃ」。


松陰は松下村塾の諸生には『留魂録』をもって、天下の大事を為すための訓戒を語る一方で、親族へは解りやすい心学道話をもって五倫五常の道に励むよう繰り返し伝えたのであった。

コロナウィルス禍で家族と過ごす時間がこれ程多いことは初めてとの声も聞く。今後の「新たな生活様式」の構築に当り、松陰の生きた時代の如く、家族の絆が大変重要であることを再確認したい。

(写真は松陰神社内の松下村塾、2020年3月23日撮影)



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