女性にも論語・孟子を講義した石田梅岩先生
享保十四年(1729)、石田梅岩先生は京都・上京の一角にて私塾を開講。その際に「女中方は奥へお通りなさるべく候」と門口に掛け行燈を掲げ、奥の一室を女性専用として男の部屋とは簾を隔てて、同じ講義を聴かせたのであった。この時代に女性に経書(四書五経)を聴かせる塾は希有であった。「女に経書がわかるものか」という世の学者の批判の中、「紫式部や清少納言は男か」と梅岩先生は初志を貫いた。
珍しい学者だと評判になり、女性の入門も少なからずいたが、その中で頭角を現したのが慈音尼兼葭(じおんにけんか)であった。
慈音尼兼葭(1716~1778)の生涯
近江国栗太郡吉田村(現草津市)、酒造業の白井家に生まれた。八歳で母を失い、僧侶の唱える法華経を聞き「母のために経を読み、その功徳をもって母のゆくえを見ん」と出家を志す。十五・六歳にして京都・薬師山(黄檗宗)の自秀、彦根正法寺村の桃谷ら尼僧に師事したほか、石山寺などで読経、参禅、断食、水垢離など修行するも自性得心に至らず。
病身となり京都六角堂前の借家で養生中、梅岩師を知り訪ねる。「いかなる大聖人もこの上はあるまじ。これ程、徳の備わりたる人、何国(いずく)にあるべくや」と直ちに入門。二十四才、先生五十五歳のときであった。門弟の木村重光邸に寄宿し、師の元へ通い工夫尽心の甲斐あって「古今変滅にあずからず、全体そのままの我なるを知る」の開悟の境地に至った。
慈音尼の入門は、梅岩先生の心にも新たな灯をともしたのではなかろうか。それまでの門人の大半は商家の経営者と就業者であり講義時間に通ってくる受講者であった。一方、慈音尼は一心不乱に悟道を求めて遍歴を重ねてきた出家者であり修行者。梅岩先生にとっては初めての内弟子であり、師家(禅の老師)になったわけである。師弟共に真剣な求道が始まった。
江戸に出て講師を務め、出生地の草津市に眠る
師が身罷って後、他国への女性の移動に制限のある時代に「先生の心ざしを天下の人びとへ語り申さん」と単身勇躍、江戸へおもむき私塾を開き『都鄙問答』などを講義した。この実行力にはほとほと敬服する。中澤道二が手島堵庵の要請で江戸布教に出る三十年前。石門心学が全国に普及する魁となる快挙であった。
病気がちの身を灸で直し、十年程講師を務め京都へ帰り『兼葭反古集』(後の『道得問答』)を出版。生誕地に戻った晩年も修行を続け、六十三才で永眠する。生家のあった近くの橘堂の隣に墓石があり、地域の人々に守られている。
慈音尼に継いで、浅井きを、矢口仲子らの女性指導者らが心学社中から出る。男女が共に学び、女性が儒書・仏典の講義を受ける機会に乏しかった封建の世にあって、ダイバーシティ(多様性)の先駆を為した師・梅岩と門弟・慈恩尼の功績を、私は声高らかに顕彰したい。
〔参考文献〕『道得問答』(本文中に引用した)、
『心学と女性』(金子昭、「大阪春秋72号」)
댓글