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石門心学風土記 第26回 山城の国 明倫舎

江戸期心学講舎の大本山として

 江戸時代、全国心学舎の頂点は、この明倫舎であった。現在もなお、一般社団法人心学明倫舎(柴田なほ子舎主)として、心学関係の貴重な蔵書類を保有・管理している。

心学舎は五楽舎(創設1765年)に次いで設立された修正舎(同1773年)、時習舎(同1779)、明倫舎(同1782年)の三舎が心学の全国展開の中心を担い、舎の設立にはこの三舎の印鑑を以って認可された(いわゆる三舎印)。

明倫舎主は、手島堵庵(1718-1786)、和庵(堵庵長子、1747-1791)、上河淇水(堵庵養子、1748-1817)、上河齊庵、毅庵、訥庵(毅庵養子、1873年没)と継いだ。わけても堵庵から淇水までの五十数年間が明倫舎の黄金期であった。

心学講師の認定は厳しく、当初は断書と琢磨札で道話を語れたが、淇水のときに三舎印鑑を京都にて受領しなければ、語ることができないと定められた。但し、断書は京都へ来なくても受領できるとした。また、或る時期より、礼物の受領、印鑑授与の立ち合いは明倫舎のみになった(『石門心学史の研究』五三七頁)。

講舎設立時の認可物は「舎号、同扁字、三師の筆跡石摺、諸国舎号、明倫舎規則」であり、各舎は請証と礼物を差し出した。

明倫舎は天明の大火により焼失し、後に錦小路室町上るの地に再建された。その後,明治二年に土地・建物が下京三番組小学校(のちの明倫小学校)に転用され、明倫舎は新町二条上るに移る。平成五年に、明倫小学校は附近の小学校との統合により閉校となる。現在は若い芸術家を支援する施設である京都芸術センターとなっている。なお、京都市学校歴史博物館には明倫舎の建物模型、手島堵庵の「いろは歌」などが展示されている。

修正舎を率いた柴田鳩翁(1783-1839)以下、遊翁(1809‐1874)、寅三郎(謙堂、1866‐1942)、実(1906‐1997)と子孫が道統を守ってきた。寅三郎は1908年に修正舎から明倫舎に移り住み、現在、柴田家は明倫舎のみに関わっている。

明倫舎が社会教育の拠点とならんことを期待

私は京都の街歩きをする際に柴田家には度々お世話になっており、また心学舎の来歴調査でも貴重な資料を拝見する機会も多い。

昭和まで、石門心学における心柱的存在であった明倫舎が、再び、心学界の中心拠点となり、現代における社会道徳の旗振り役を担うとき、日本が世界から尊敬される国になっているであろうと、期待している。そんな時がいつの日か訪れることを願ってやまない。




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