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石門心学風土記 第25回 常陸の国 有隣舎・尽心舎

執筆者の写真: 大和商業研究所大和商業研究所

江戸時代、茨城県には心学舎は六舎あった。有隣舎(筑西市)、尽心舎(つくば市)、三省舎(水戸市)、孝友舎(常陸太田市)、孝準舎(土浦市)、敬親舎(常総市)である。うち敬親舎は下総国であるが、ほかは常陸国である。( )内は現行政市。うち有隣舎と尽心舎を訪ねた。

有隣舎の子孫は二十代目中村兵左衛門氏

 下館藩士・黒杉政胤は河内国石川郡白木村代官のときに石田梅岩について修行した直弟子の一人である。その縁あってか、寛政年間に藩主・石川総弾(ふさただ)・総般(ふさつら)父子は北条玄養について心学を修めた。中澤道二、玄養らが下館城下に度々来講し、同五年頃、都講中村兵左衛門、古谷(こや)又右衛門により有隣舎が設立された。JR下舘駅近くにある中村美術サロンを訪れ、当主・兵左衛門氏に有隣舎の歴史を伺った。

同家に残る『心学こゝろのしらべ』を今も有識者が用いて、心学による修養の大切さの事例を伝えている。『文政期下館町における石門心学の青少年教化の実際』(長谷川伸著)に詳しい。中村家二十代の経営史に興味が尽きない。

なお幕末になり藩主・総貨(ふさとみ)時代、経済再生のため報徳仕法により領内の更生を行っている。

平成まで集い続けた尽心舎

尽心舎は、寛政六(一七九四)年に土浦藩小田村に設立。都講は小泉新右衛門。「天保一八三〇~一八四三)に入っても尚活動を継続したものは(関東では)江戸の参前舎、盍簪(こうしん)舎、大島村の恭倹舎及び尽心舎の合計四舎のみ」とあるから、これら四舎は長期継続の学び舎といえよう(以上『石門心学史の研究』石川謙著、岩波文庫)。

天保どころか、尽心舎は平成の世まで続いた。舎の子孫、8軒が一九九四(平成六)年まで毎年3月に集まり、二百年に亘り心学の先師に感謝する集いを開催していた。床の間に師(石田梅岩、中澤道二、手島和庵)の肖像画や書をかけ、師専用の食器を出し、食事を提供し続けていた。舎の中心人物である小泉家には「尽心舎」碑が残されている。紀元二千六百年(一九四〇年)を記念して、小泉眷氏により建碑された。

舎の祭祀が途絶えた後、子孫から市へ寄贈の遺品、木箱10箱、ダンボール1箱が出土文化財管理センターに所蔵されている。中味は舎号扁額、石田梅巌真跡石刻、手嶋堵庵の肖像・真蹟石刻、中澤道二肖像、手嶋和庵真蹟、霊膳(梅厳、道二、和庵)、『手島先生事蹟・上河先生事蹟』など古文書多数。

 平成の世まで舎の集いを続けたこと、及び小泉家に建立された碑に敬意を表する。是非、舎の復活の日が再び出現することを願いたい。


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