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教えを広める心学者達 『先哲・石田梅岩の世界』54 

手島堵庵は江戸に中沢道二(どうに)を派遣し、心学の影響力を広めました。

寛政の改革を牽引した老中・松平定信は、緊縮財政や風紀取り締まりのほか、佃島人足寄場の教諭方に心学者を据えました。また心学の功徳を評価し「此の道の流れて広し海の月」と詠みました。

 江戸時代に設立された心学舎の一つ、明誠舎は一七八五年に大坂・南船場飾屋町心斎橋の井上宗甫により創設され、手島堵庵が中庸よりとって命名しました。大坂商人の経営活動や従業員教育に力を注ぎ、一九〇五年(明治三八年)に社団法人心学明誠舎に改組しました。戦後、竹中靖一近畿大学教授を中心に学び舎が継続し、現在も実務家と研究者の両輪で心学実践の道を歩んでいます。

道話(どうわ)を中心に実践道徳の書として伝わる

明治初年、学校教育制度ができて後も心学書が広く普及していました。藤岡作太郎(国文学者)は自らの体験を「予、郷(きょう)にありし時、近村の家に宿して、夜間無聊(ぶりょう)に絶えず。書籍の読むべきあらば之を供せよと請(こ)いて得たるもの、百人一首・一二道話の書なること一回に止まざりき。これによって始めて心学の深く俗人の間に伝わり、遠く幽僻(ゆうへき)の地に行われたるを知れり」と述べています。

道徳経済合一主義の渋沢栄一は『論語と算盤』で「神儒仏三道の精神を合わせ、平易なる言葉を用い、実践道徳の鼓吹に力めたものに、心学というものがある」と自身に大きな影響があったと語っています。



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