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心学風土記 第6回 丹波の国 中立舎

道二翁道話に近村より六千七百人が集まる

丹波国は範囲が広く、地形的にも盆地で分れており、江戸時代は7つの藩が治めていた。とりわけ、亀山藩と篠山藩は、地政学的にも主要な拠点として位置づけられていた

心学舎は丹波に五舎在り、各舎で心学界における主要な人物を輩出したが、とりわけ篠山の中立(ちゅうりゅう)舎は、江戸時代に心学が栄えた面影を現在に伝えている。

当地は梅岩先生の開講地・京都と西京街道で結ばれ、途中の先生ご生家のある亀岡からも近い。それもあり、安永・天明年間といった早期に手島堵庵により心学が伝えられた。

寛政6(1794)年、篠山城下及び多紀郡八上新村に中澤道二を招いて道話を催して盛況を呈する。6日間12席で6672人、一席平均513人という驚異的な集まりであった。発起人は波部光孚(はべみつたね)で、八上新村の名望家に生まれ、天明元(1781)から文化12(1815)年まで大庄屋役を務めた。

寛政9年、中立舎を波部邸内の一部に創設する。京都より講師を招き、郡内の大庄屋達はこぞって心学に勤しんだ。これを歓び篠山藩候の青山忠裕は中立舎のために白銀1枚、米10石を供し、経常経費を助けた。藩の支援もあり、郡・村をあげての心学の普及をみたのである。

明治の学制一新で小学校ができたが、他の地区は入学するよう頼みに廻ったようだが、この地区は中立舎で学んでいた子供達がそのまま小学校に入った。

学風豊かな土地柄により、平成の世に中立舎が蘇った。2008年、校区単位の地域づくりを支援する「県民交流広場事業」の助成を受け、畳の張り替えや屋根のふき替えなど改修工事を進め、日置地区の活動拠点となった。

今も残る貴重な扁額、掛け軸、施印など

先般、当地の久井勝明氏のご助力で郷土史家の中野卓郎氏に説明頂いた。何と、学び舎の玄関に上河淇水(明倫舎第三世)揮毫の中立舎の扁額、居室の床の間には手嶋堵庵の直筆「切磋琢磨」の掛け軸、子供たちの教材であった貴重な「施印(せいん)」が多数在った。

また兵庫県立篠山鳳鳴高校に青山文庫として篠山藩の蔵書一万冊が寄託され、その中の心学関係書物も拝見した。

このように身近に、江戸時代の心学に触れあえる場所はこの地以外には寡聞にして知らない。いまや希少価値で、歴史博物館にあるような遺産が手に取ることができる。まさに庶民のための心学舎、ここにありだ。


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