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心学風土記 第14回 長門の国 日章舎

最終更新: 2020年8月14日



「日章舎」の舎号由来は『中庸』から

 石門心学舎は『諸国舎号』に170舎が掲載されている。舎号名の上二文字は、中国古典を典拠として京都・明倫舎から与えられる。

萩に文政10年(1827)設立の「日章舎」は『中庸』33章からと推定される。「君子之道、闇然而日章、小人之道、的然而日亡」〔君子の道は闇然(あんぜん)として日に章らかなり、小人の道は的然として日に亡ぶ〕。意味は「君子の道は淡白で目立たないようであるが日に日に彰かになっていく。しかし小人の道は外面ばかりにとらわれて際立てているが、日に日に滅びゆく。」。日章に籠められた言葉は、関ケ原で破れて防長二国に閉じ込められ、捲土重来を期す毛利藩にとっての藩是と共振している。

時代の転換、天保期に長州藩が心学舎を経営

天保年間(1830~44)は大飢饉、幕府・藩の財政悪化、物価高騰といった内憂に加え、英・米・露などの大国がアジアを侵略し日本に食指を伸ばしつつある外患が迫っていた。今の令和は天保期の環境に似ている。戦後の平和に安住し、コロナという黒船を前に対策が後手だ。

天保では水野忠邦の改革が始まり、財政再建、奢侈禁止、風紀是正などを推進。町奉行に遠山景元(金四郎)が登用された時代であった。

長州藩にあっては、天保2年に大一揆が起きている。藩は財政難から産物会所での専売特権を豪農商に与えるなど、農民の商品経済を厳重に抑制した。これに反発した農民による一揆は、瀬戸内から日本海沿岸まで波及し、その参加者数は十万人を超えた。藩は農民向けに経済統制を緩和すると共に、五常五倫を以って勤勉倹約に務める石門心学を奨励した。一時の中断はあったが明治初年まで心学の教えは継続した。

民間有志が設立の「日章舎」講師、安芸の奥田頼杖に委嘱して藩内各村を巡講せしめた。

天保中頃、日章舎は藩の経営に移り、諸費用は、藩主毛利敬親(たかちか)が、先々代の遺銀十貫を舎の基金としたことで賄った。その後、藩の撫育方より2貫、各宰判区から10貫の道話基金を積み立てた。(1貫:約200万円)

石川謙が「これ程、大掛りな組織を立てたのは他に例を見ない」と断言するほど、心学史上最高の資金を準備した藩経営が成立した。

丁度、山鹿流兵学師範の吉田家の養子になった松陰が、熱心に奥田頼杖の道話を聴講したのはこの時期であった。明治維新前の胎動の中、新しい時代を切り拓いた長州の民が心学修養に励んでいたと想像すると、心躍るものがある。

【参考文献】

『大学・中庸(下)』(朝日新聞社)

『石門心学史の研究』(石川謙)

『幕末・維新期長州藩の政治構造』(三宅紹宣

『長州藩における心学道話の歴史的意義』(河村太市)

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