• 大和商業研究所

心学風土記 第12回 伊予の国 六行舎

伊予・松山にて江戸後期、心学講師・六行舎主として名を馳せた近藤平格(へいかく、名洲)の四代目子孫、近藤元規(もとのり)氏を訪ねた。平格の肖像画や、夏目漱石の俳句を拝見。正岡子規や秋山好古らと、ご先祖の交流の様子を伺った。松山は正に偉人の宝庫である。

近藤平格、全国の心学舎設立に多大な影響

心学者の影響力の規準をどう計るか。一つの指標として何舎の創設に携わったかで数えると、以下の順になる。①中澤道二、②上河淇水、③植松自謙、④手島堵庵、⑤近藤平格、柴田鳩翁、大島有隣、⑧北条玄養、⑨柴田遊翁、中村徳水がベスト10。平格が五番目にランクされ、堵庵、道二、鳩翁と並び称せられるほどの人物である(『石門心学史の研究』より筆者作成)。

近藤平格(名洲)略歴(1800~1868)

農業から儒者、そして心学者に転じる。京都・明倫舎に学び、江戸へ出て大島有隣に師事する。人足寄場で有隣の代講を務めるなど、有隣門下の四天王(清水春齋、矢口来応、中村徳水)の一人として名をはせ、関東・東海・近畿・中四国の心学興隆を図り、近世社会教育の第一人者と称せられる。全国に心学を広布した際の日記が遺されており、研究者の資料として貴重な記録である。平格の思想は朱子学を中核とするが、神仏道を粗略にするべからずと、梅岩教学に接近した。

平格の後を請け、次男・元弘が六行舎主を継ぎ、幾多の俊英を育てた。平格の孫・我観(元規氏祖父)は中学校教師で北予中学校長代理時代、秋山好古校長の葬儀に弔辞を読む。子規、漱石の俳句仲間であり、漱石の愚陀仏庵で句会に同席する。漱石の熊本転勤の際に俳句を送られ、現在自宅に軸装されて保管されている(左写真参照)。

「永き日やあくびうつして別れ行く(愚陀佛)」 田中一如~盲目の講師の徳が平格を心学者に~

龍泰寺の近藤家墓参の後、六行舎の創始者・田中一如の墓を妙清寺に訪ねた。同寺には子規の同級生で俳諧師の柳原極堂の句碑がある。

田中一如の略歴(1769~1846)松山藩士、小姓、歩行組に勤めるが失明。大阪に出て易を学び、藩許を得て京都・明倫舎に入り上河淇水に師事。次いで江戸・参前舎にて中澤道二、大島有隣に就く。文政十年(1827)年六行舎の印可を受ける。盲目の身で江戸・京阪、中国地方を巡講。大名・旗本らの邸にも招かれ心学を講じた。東西で対立しがちな心学舎の融和を図り、高徳の道友と慕われた。一如の人柄を敬慕した儒者・近藤平格は心学に進路を転じたのであった。

一如・平格は『愛媛県史』に十三頁に亘り掲載される偉人である。令和に生きる人々にも、これら先人の偉業を広く伝えてほしいものだ。


30回の閲覧0件のコメント