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心学風土記 第11回 伊賀の国 麗澤舎・有誠舎

伊賀は忍者の町であり、芭蕉翁の生誕地として著名である。昨秋には、上野天神祭のだんじり行事がユネスコ無形文化遺産に登録された。

その伊賀に心学舎は二舎あった。柘植の「麗澤舎」は農家中心に、上野城下の「有誠舎」は藩士を中心に、有為の人材が集った。

三重県文化財として今も残る「麗澤舎」

「麗澤舎」は寛政5(1793)年頃に創立された。近江の立川肥遯(ひとん)を講師に、地元の有力者、冨山采一(医者)・稲垣幸蔵・松尾半次・山本六太夫らが都講となり、私財を投じ道場を経営し講義を行なった。東柘植の大和街道と都美恵(つみえ)神社参道の交差点に面し、往時は殷賑を極めた地に現在も残っている。

庭に建てられた「史蹟 旧麗澤舎跡」碑は、昭和13年に舎の建造遺地として県の文化財に指定され、その際に建立の石柱は高さ3メートル、24センチ角の堂々たるものである。この家は、明治以降、居住者が替わり、戦後、采一氏の縁者である冨山文夫さんが、敷地・建物を受け継いでいる。富山さん所蔵の石田梅岩の自筆書など貴重な

心学関係の資料類は柘植歴史民俗資料館に寄贈された後、現在は伊賀市教育委員会に移管されている。

上野城下で藩主・藩士・庶民が学んだ「有誠舎」

「有誠舎」は上野城下の中心地、大和街道に面する、万吉稲荷のある中町にあった。

寛政7・8年頃の創設で、文化中期に廃絶ののち、天保3年に京都・修正舎主の柴田鳩翁の来講により再興し、幕末まで栄えた。城詰めの家中を中心に、築山忠右衛門・曽我五郎兵衛など錚々たる藩士の一群が熱心な支持者・修行者であった。鳩翁・遊翁が度々来講し、上野城内の武士と城下幾百の庶民とが真剣な修行に入る機会を提供した。藤堂藩主一族も心学修養の志が篤く鳩翁の道話を直接拝聴している。幕末の上野は心学隆盛の地となり、森川武蔵は上野を全日本の心学の中心地に仕立て直そうと試みた。

藩内の状況を五郎兵衛(軍学者)が鳩翁に語った。「藩内で古学が流行した折り、心学停止令が出され上司からも心学をやめるように申し渡しがあったが、やめさせるのであれば自分の首を斬るようにと言い、心学修業を続けた。現在は、道話が聞かれる状況になってありがたいことだ」。鳩翁は感激して「誠に有り難き一言骨にしみ、心に彫りてわすれ申さず候」と『よしなし草』に記している。

伊賀市の両舎には先人の篤い志が今も息づいている。願わくばこの光被が将来にわたり、世の中をあまねく照らさんことを。

(参考『伊賀市史』『図説・伊賀の歴史』

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