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  • 執筆者の写真大和商業研究所

心学風土記(第1回)出羽の国「鶴鳴舎」

更新日:2023年8月10日

 藩主自ら心学を学ぶ 出羽の国は現在の秋田県・山形県に相当する。

 全国で一八〇舎以上あった心学舎のうち、庄内藩に鶴鳴舎があった。

 この地(現鶴岡市)では石門心学が栄え、今もその遺徳が伝わっている。

 庄内藩は江戸時代、一貫して酒井氏が治め、本城を鶴岡の鶴ケ岡城とし、支城を酒田の亀ヶ崎城とした。酒田港は北前船の拠点として栄え、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われたように、商人は財力を誇った。藩主、酒井氏の治世は正しく、本間家はその財力で藩を助け、社会基盤を整備した。 寛政期に藩主、酒井忠徳(ただあり)は、江戸で参前舎の中澤道二・関口保宣の道話を聞き、庄内に心学者・北条玄養を招き、藩内を巡行せしめている。


 商人・荒井和水が中村徳水を招き各地を巡講 天保期に入り、商人の荒井和水などが参前舎に入門。後に広島藩士で参前舎主の中村徳水を二度招き、城下では連日四百~七百人の聴衆が集まり、七日間の予定が十四日間に延長された。また庄内各地を二カ月巡講する。入門証である琢磨札を受けた者は千人にのぼり、空前の心学ブームを迎えた。


 和水の心学道場は「鶴鳴舎」と命名され、安政二年(一八五五年)、徳水を招き舎開きが行なわれた。 心学は庄内のみならず酒田の商人にも受け入れられ、白崎五右衛門、山田太右衛門、尾関又兵衛など、心学を心の支えとした商人は多い。

酒田商人は、日本の経済をも動かしていたといわれている。永く栄えた事由には、心学に裏打ちされた確かな経営哲学があったからこそであろう。


 江戸期の史蹟・資料が今も大切に遺る 先般、当地にて心学の薫風を伝える郷土史家の前田光彦先生にご案内の上、貴重な資料を頂戴した。 鶴岡市郷土資料館には、荒井家保有の文書や掛け軸など一一七点寄贈されている。また、師の中村徳水の碑が市内の本鏡寺と加茂町に在り、荒井和水の碑は本鏡寺で徳水碑に寄り添うようにやや小さめに建っている。荒井家の墓碑は蓮台院に遺る。  このように、心学が江戸後期の庄内地方に伝わり、民の徳育、商工の永続的繁栄に少なからず影響を及ぼしたことは想像に難くない。 鶴鳴舎の再興を願ってやまない。



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