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藩主自ら心学を学び、町奉行が舎を開く 金沢に所用があり、心学舎があったという地域を訪れた。江戸時代と地域表示が変わっており、やっと探し当てた先にあったのは、「金沢大学発祥の地」の石碑。調べてみると1862(文久2)年に金沢大学の前身である種痘所が「反求舎」の建物に作られたとある。ここから私の心学舎を訪ねる旅が始まった。
加賀の心学の始まりは、嘉永年間(1848~54)に江戸詰めの藩士が、江戸・参前舎に相次いで入門。第13代藩主・前田齋泰(なりやす)の嗣子慶寧(よしやす、後の県知事)とその夫人等が、参前舎主・中村徳水の講話を定期的に聴き、心学を修めていた。 その影響もあり、国許では町奉行の田辺喜蔵が藩の許可を得て、領民の教化機関として心学舎を設立した。安政6(1859)年、正式に京都・明倫舎より「反求舎」の舎号が賦与された。その後、明倫舎主の柴田遊翁を招き市内及び藩内各所を巡講せしめている。
舎は明治初年まで続いた。さすが加賀百万石の大国。新井白石が「加賀は天下の書府なり」と評するように、学風に篤い土地柄だ。領民に強制することなく、あくまで人たる道を学ぶ機会の提供を専らとした。 金沢心学の系譜~戦後まで続いた道統~ その後も鈴木大拙、藤岡作太郎、小倉正恒(住友銀行総理事、大蔵大臣)、新木(あらき)栄吉(日銀総裁)、本陣甚一(北国銀行頭取)、石橋義雄(北国銀行頭取)、徳光八郎(金沢大学教育学部長)等、錚々たる人物が昭和の世まで心学の教えを徳育に活かした。 昭和29(1954)年には金沢大学理学部に高松宮をお迎えし、石門心学会金沢支部が発会式をあげた。また、昭和44年時点で、金沢大学橋本芳契先生を中心に心学の道統が守られているとの記録が残されている。
金沢大学につながる縁(えにし) 冒頭に書いた通り、「金沢大学発祥の地」が心学講舎であったことを発見した私は、その事を伝えるべく金沢大学学長らに手紙を出したところ、丁寧な返信を頂いた。後日談として、私の知らせた調査内容と大学独自の調査結果を、山本博副学長により「学会」発表がなされ、私の名前もそこに併記されている。大学の志ある人により、反求舎が平成の世に伝えられたことは真に嬉しい限りだ。 この地に近年まで存在した心学舎を是非復活してほしいものだ。
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