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長野県坂城町 中之条代官「荒井平兵衛」

最終更新: 2018年9月10日

最終更新: 2時間前


中之条代官「荒井平兵衛」

~領民教化に心学の教えを用いた『かくあるべし』を配布  


信濃の国、埴科郡中之条村の荒井平兵衛は文政4年(1821)から同12年まで、中之条代官を勤めた。通常、代官は江戸住み、秋の収穫期に現地に出張することが多かったようだ。荒井も江戸(小川町神保小路)に居住し、心学参前舎主の中澤道二の著書を参考にした教諭書「かくあるべし」を書き、支配地に行き渡るよう、村々の名主・組頭に配布した。更に教諭所を建て、領民の教化に当たった。  


幕府の要職にある荒井が、心学書に類した教本により民心を穏やかにし、さらに「教諭所」で村人の学力・徳力を高めようと図ったことは、誠に実篤な官僚といえよう。  




この地に隣接の戸倉町(現千曲市)には中村習輔が主宰した恭安舎があった。中之条代官所は私の父の生家からは一里程だ。先祖が恭安舎に学び、また中之条代官の荒井平兵衛が配布した「かくあるべし」を読んでいた可能性があるかと想うと、私にとって心学が一層身近に感じられる。  なお「中之条代官所」跡に「天領中之条陣屋跡」碑が建てられている。当初置かれていた坂木陣屋(坂城駅付近)が宝暦四年(1754)に中野へ移動。安永8年(1771)本陣屋となって中之条村に総坪数1055坪の本陣屋が設置された。中之条代官支配地は、佐久、小県、埴科、更科、水内、高井の六郡に及んでいたとのことだ。 時代背景と荒井の徳政(『戸倉町史』より)  


江戸時代の半ばの宝暦・天明年間(1751~89)には、奢侈に走るもの、博打・盗みなどの悪事、欠落(かけおち)・潰れ百姓の増加にみられるように社会が大きく変動してくる。  これにたいして幕府代官や藩は領民へお触れや五人組帳の前書きなどで、農業出精・倹約・遵奉などを説いて体制の維持に奔走する。さらに危機感から領民への教化策をとるようになる。  文政3年(1820)から同10年まで、中之条の代官を勤めた荒井平兵衛は、『牧民金鑑』編さんで著名な荒井清兵衛一族であるが、心学舎中澤道二の著書を参考にして教諭書「かくあるべし」を領内に配布した。  これは、幕府の仁政から説きはじめ、親子・夫婦和合、身分相応、農業出精、勤勉などを神道・仏教・儒教・心学などを借りて長文にしたものである。末尾のところに、「御高札のうち、四か条を子どもたちの耳にも入りやすいように、日待(ひまち)か雨降りで手のすいたときをえらび、1か月に両度ずつ村役方へ男女残らず集め、静かに読み聞かせ善導に導きたし」と記している。  その高札というものはつぎのものである。 一.親子・兄弟・夫婦をはじめ諸親類にしたしく、下人などにいたるまでこれを憐れむべし。主人ある輩(やから)はおのおのその奉公に精を出すべき事。 一.家業を専らにし怠る事なく、万事その分限に過(す)ぐべからざる事。 一.偽りをなし又は無理をいい、惣じて人の害になるべき事をすべからざる事。 一.博奕の類、一切禁制の事。



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