今回の旅の目的地は松山の六行舎、そして淡路島の大洋舎の心学二舎。昨年、両舎の子孫と知り合ったことによる。
①淡路島「大洋舎」関連史蹟訪問
初日に大洋舎・高村悠齋(1765明和2~1834天保5)の史蹟を訪ねた。なお、悠齋の子孫の方から、貴重な資料、『大洋雑話』、『奇談新編』、『扁鵲志志』(以上現代語訳付き)、『江井教育史』を送って頂いた。分厚い書物であり、じっくり読んでいきたい。
八幡寺(淡路市志筑)には、心学講師高村周平(悠齋)の墓と、子息・幹齋の墓・碑が有る。大洋舎の跡(淡路市江井)は現在、江井共同墓地となっている。
『江井教育史』(1974年、江井小学校創立百周年事業実行委員会)に父子の略伝が掲載されている。悠斎は4頁、子息の幹齋は3頁に亘り詳しい。
悠斉は高村伝左衛門(庄屋)の支流の家に生まれた。家は船乗りであったが、医術を学び医師となる。そして心学に傾倒し、京都へ出て上河淇水に師事する。後、江井に帰り、医者のかたわら私塾を開き、心学も教えた。その塾名を大洋舎と名付けた。この舎名は明倫舎から与えられたものではないため、『諸国舎号』に掲載されていない。著書に『大洋雑話』。
子息の幹齋(1802年~1850年)は、父と同じく医師にして心学講師であり、『扁鵲志志』『奇談新編』を著している。
現地を訪ね、江井の良港としてのかつての賑わいぶりを想起してみた。線香の一大産地でもある。
②高田屋顕彰館:洲本市五色町都志(つし)、高田屋嘉兵衛公園内
高田屋嘉兵衛(1769~1827)。悠斎・嘉兵衛とも同年代を生き、江井と都志は直線で6km程の距離である。共に地域の著名人であり、嘉兵衛は年長の悠斎から影響を受けたものと推測する。
嘉兵衛の言葉「世に商人(あきんど)ほど、物や人を見る目と姿勢が冷静なものはない」「商人たる物は欲に迷うな」「利と欲とは違う。欲で商いをする者はたとえ成功しても小さくしか成功せず、かりに大きく成功してもすぐほろぶ」(出典『菜の花の沖』司馬遼太郎)。まさに石門心学精神である。これを引用し、私も自著『新入社員の常識』で一頁を高田屋嘉兵衛に割いた。司馬は嘉兵衛を代表として「日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶ相応しい人物がいる」と語っている。是非、この顕彰館を訪ねていただきたい。
③伊弉諾神宮
今年の元旦に続いて参拝した。正月は混雑を極めたが、2月の平日は静かな境内だ。
古事記の国生み神話に伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)が最初に「淡道(あわじ)の穂の狭別(さわけ)の島を生みたまいき」とある。それにちなんで建てられた『神様の結うとおり』碑には「我が国の敬神崇祖の信仰の原点である大自然への畏敬の心と古代の国づくりのあり方を感じていただく『心巡りの聖地』として親しまれるように」と刻まれている。石田梅岩先生も自然災害に遭わないように「雨を乞い風しずかにと祈るなり まもらせたまえ二柱(ふたばしら)の神」と祈っていた。二柱の神とはもちろん、イザナギとイザナミである。今も天からこの地球の安寧を祈願しておられることでしょう。
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