12月17日の円覚寺・横田南嶺管長日記に私と石田梅岩先生・石門心学のことを取り上げて下さっています。
勿体なくも有難いことです。どうぞお聴きください。
写真は7月9日に円覚寺を訪問した時のものです。
全文を掲載させていただきます。
2023.12.17
今日の言葉
地中の虫にも気を配る
神渡良平先生とご縁をいただいて、いろんな書物を読ませていただきました。
なにより、一番有り難いと思っているのは、辻光文先生のことを学べたことでした。
辻先生のことは何度も書いたことがあります。
シンナーや窃盗、売春などをした児童を、小舎夫婦制という家庭的な生活の中で生活指導し、自立を援助する児童自立支援施設である大阪市立阿武山学園で長年教護をしていた先生です。
辻先生は昭和五年(一九三〇)、東京で生まれ、秋田県の山の中の禅寺で育ちました。
長じて京都の臨済学院専門学校に進みました。
これは今の花園大学であります。
辻先生は卒業しても寺院に所属せず、在家仏教徒として生きようと思いました。
幾多の苦労を重ねますが、やがて大阪の教育支援施設を訪ねたことから、そこで住み込みで働くことになりました。
その後、大阪市立阿武山学園という小舎夫婦制の施設で、道を踏み外した児童たちと生活を共にしながら、自立を手助けする活動をなさっていたのです。
辻先生の言葉は法話や講演などでもよく使わせてもらっています。
「『いのちはつながりだ』と平易に言った人がいます。
それはすべてのもののきれめのない、つなぎめのない
東洋の「空」の世界でした。
障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、
区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち、いのちそのものです。
それは虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、
宇宙の塵の果てまでつながるいのちなのです。
劫初よりこのかた、重々無尽に織りなす命の流れとして、
その中に、今、私がいるのです。
すべては生きている。
というより、生かされて、今ここにいるいのちです。
そのわたしからの出発です。
すべてはみな、生かされている、
そのいのちの自覚の中に、宇宙続きの、唯一、人間の感動があり、
愛が感じられるのです。
本当はみんな愛の中にあるのです。
生きているだけではいけませんか。」
という言葉であります。
なんど読んでも素晴らしいものです。
先日対談をさせてもらった清水正博先生は、石田梅岩先生を尊敬されていて、『先哲・石田梅岩の世界 神天の祈りと日常実践』という著書もございます。
石田梅岩というと日本の優れた思想家であります。
『広辞苑』には、「江戸中期の思想家。通称は勘平。石門心学の祖。丹波生れ。
京都に講席を開き、商人の役割を肯定するなど、庶民を教化。
著「都鄙問答」「斉家論」「石田先生語録」など。(1685~1744)」
と書かれています。
「心学」とは何かというと、これも『広辞苑』には、
「①心を修養する学問。程朱学・陽明学の類。
②江戸時代、神・儒・仏の三教を融合して、その教旨を平易な言葉と通俗なたとえで説いた一種の庶民教育。修錬のために静座などを重んじ、社会教化には道話を用いる。石田梅岩を祖とする石門心学に始まり、手島堵庵・中沢道二・柴田鳩翁らが活躍、各地に心学講舎が作られた。」
と解説されています。
この今の時代に、石門心学を学び弘めようとされている清水先生はどんな方かというと、『先哲・石田梅岩の世界 神天の祈りと日常実践』の編者略歴には、次のように書かれています。
「1950年長野県上田市生まれ。 電気通信大学卒業、関西系大手小売業に入社。
物流、 市場調査、中期計画、 人材開発、店舗運営、 店舗開発等を歴任後、系列のシンクタンクの代表取締役を12年間務め、 顧問に。
社団法人心学明誠舎理事、社団法人実践人の家理事 中小企業診断士、 人間学塾・中之島世話人代表。」
と書かれています。
これは平成二十六年のものです。
『先哲・石田梅岩の世界 神天の祈りと日常実践』は、石田梅岩先生の言葉をやさしく解説されている良書であります。
その中にあるいくつかの言葉を紹介させてもらいます。
六番にある「聖人の行いを見聞きし人の手本に」という一節です。
はじめに清水先生の分かりやすい意訳があります。
「先生は学問を好んでいたので、同僚で書物好きの人が先生に「何を志して本を読んでいるのか?」と質問しました。
先生は「あなたはどう思うか?」と聞くと、同僚は「広く学問をして知識人になりたい」と答えました。
先生は「私は学問により、昔からの聖人賢人の行いを見聞きし、広く人の手本になりたい」と言ったところ、同僚に「その考えは大変すぐれた志ですね」と感心されました。」
そのあと梅岩先生の原文が書かれています。
そして更に清水先生の「付言」があります。
「後に私塾を開講した際に用いた書物は「四書・孝経・小学・易経 詩経・大極図説・近思録・性理字義・老子・荘子・和論語・徒然草」等でした。この頃の読書尚友が、後に指導者となる基礎を形成したと言えましょう。夢の大きさと日々の精進が、結果を左右します。先生は後に、「一日の懈怠は百日となり、百日の懈怠は一代となる」と語っています。
懈怠とは仏教用語で、修行に熱心に取り組まないことをいいます。」
というものです。
梅岩先生の高い志が知られる一節であります。
四四番に「神儒仏ともに悟る心はなり」という一節があります。
清水先生の意訳を参照します。
「仏性とは天と地と人の本体です。仏法の究極は自性を知ることです。
仏陀より二十八世の達磨大師は見性成仏を説きました。
また儒教では道の根源は天より出ると言います。よって天の命を自性といい、自性に従うことが人の道であると説いています。
自性というものは天と地と人の本体です。神道・儒教・仏教のいずれであっても、悟る心は一つです。何れの教えで心を得ても、全て、自分の心を得たことになります。」と書かれています。
そのあと原文があって、更に清水先生が「付言」で、
「日本人の穏健な宗教観は、聖徳太子を始めとした日本古来からの伝統であり、先生がその生涯を通じて最も伝えたいことの一つでしょう。
鎌倉では東北大震災の慰霊を、神道・仏教・キリスト教が合同で行っていると、人間学塾・中之島にお招きした円覚寺の横田南嶺管長よりお聞きしました。日本から世界に伝えたい取り組みです。」
と書いてくださっています。
22番には、「地中の虫にも気を配る」という一節があります。
意訳では「先生は言われました。
私は無益な殺生を悲しく思い、二十年来、風呂や足を洗ったお湯が熱いときは水を足して、土に流しています。
これは地中の虫が死なないようにするためです。
このことは、ほとんどの場合に行えました。しかしこれは些細なことです。
何とか自身の貪欲な心を止めようと志し、自炊し欲心が起きないよう、常に心を尽くしてきました。
このようにすれば私のような柔弱な者も無欲になって、少しは人の心を助ける役に立つのではと思います。」
と書かれています。
梅岩先生の人となりがよく分かる言葉であります。
梅岩先生は了雲という禅僧について参禅の修行もなされている方であります。
すぐれた思想家であり、実践家でもあった梅岩先生であります。
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