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『石田先生事蹟』①

Web松柏舎で第1講・第2講で読んだ、『石田先生事蹟』を掲載します。『石田梅岩全集(下)』621~624頁9行目までです。基本、漢字は読みにくいので新字体に、平仮名は原文のまま、(  )は原著に従った振り仮名ないしは清水注。


『石田先生事蹟』(原文)

『石田梅岩全集 下巻』(清文堂)

①先生名は興長(おきなが)、一名(ひとつのな)は梅岩、呼名(よびな)は勘平、石田氏(うじ)なり。父の名は浄心(じょうしん)、母は角氏(かどうじ)の女(むすめ)なり。

貞享(じょうきょう)二年(一六八五)乙丑(きのとうし)九月十五日、丹波桑田郡(ごうり)東縣(とうげ)村に生まれたまへり。先生ひととなり正道(しょうどう)にして、材もまた世の常に越えたり。父の養育も正しかりし。其一をあげていはば、十歳ばかりの頃、父の山へあそびに行きて、栗五つ六つ拾ひ帰り、昼飯の座へ出(いだ)し父にみせたまひければ、父其のありし所を問たまふに、先生父の山と、他の山の堺にありしとのたまふ。父の曰、我山の栗の樹は、其の枝山の堺へかからず、他の山の栗の枝我が山の堺へかかれり。是極めて他の山の栗なり。然るをその弁(わきま)へなく、拾ひきたる事をいましめ、昼飯の半(なかば)をも許したまはず、いそぎ本の所へ返すべしとありければ、先生かしこまりて、直(じき)に持行き、ありし所へ返し置き給へり。

②先生二十三歳の時、京都へ登り、上京(かみぎょう)の商人(あきびと)何某(なにがし)の方(かた)へ奉公に在付(ありつき)給へり。はじめは神道をしたひ、志したまふは何とぞ神道を説弘むべし。若(もし)聞(きく)人なくば、鈴を振り町々を廻りて成とも、人の人たる道を勧めたしと願ひ給へり。かく志たまふ故、下京へ商ひに出給ふにも、書物を懐中し、少しのいとまをも心がけまなび給へり。朝は傍輩(ほうはい)の起きざるうちに、二階の窓に向ひ書を見給ひ、夜は人寝静まりて後、書を見たまひて、主人の用事少しも闕(か)き給ふことなし。扨(さて)其家にて頭分(かしらぶん)になり給ひても、冬の夜いね給ふには、暖なる所を人へゆづり、みづからは店の端近き所に寝給へり。又夏の夜は、小者らふみぬぐことあれば、度々起きて、きせてまわり給へり。

③先生学問を好み給まふを、傍輩のうち博く書を見たる人、その志を問ふ。先生まづ其元(そのもと)はいかんとのたまへば、彼(か)の人、我は博く学問し、今の世の博識(ものしり)になり度(たき)のぞみなりと答ふ。先生我はさにあらず、学問し古(いにしえ)の聖賢の行ひを見聞き、あまねく人の手本になるべし、と思ふなりとのたまへば、彼の人いはく、それこそ勝れたる志なれとて、感じけるとなり。

④先生の主人何某の母は、其のひとととなり貞節にして、尋常(よのつね)にすぐれし人なり。あるとき先生縮緬(ちりめん)の羽織を着し、かのあるじの母の側(かたわら)へ出給ひしに、主(あるじ)の母、その羽織は、絹の羽織にあらため替へて宜しからんと申されければ、先生答へて、兼ねてそのこゝろもつき候へども、唯一つの羽織なり。売りかゆれば費(ついえ)ある故、有にまかせて着用せりと申したまへば、彼の主の母、しかれば汝の縮緬のはおりは、絹のはおりに同じとて、許されけり。又彼(かの)家は本願寺門徒にて、宗祖を信じ、小者迄もことごとく御堂(みどう)参りをさせられけるに、先生は度々参詣もしたまはず、且(かつ)時々、彼(か)の主の母へ神道をすすめ給へり。其家にて年老いたる手代、先生の神道を学び、宗旨に疎(うと)きことの由(よし)を、彼の主の母へ告げしかば、主の母答へて、勘平が神道を学べるは、其志格別なり。御堂へまゐらずとても信心あり。かれが事はかまふぺからずとぞ申されける。其の後此の主の母病ひ発(おこ)りて、日日に重りければ、側に居ける女に申されけるは、今わが身何に不足もなし、残念なるは勘平が行末栄えの程を、長生ながいき)せば見んものをと、申されしとなり。

⑤先生三十五六歳の頃まで、性を知れりと定めゐたまひしに、何となく其性に疑ひおこり、是れを正さんとて、かなたこなたと師を求めたまへども、何方(いずかた)にても師とすべき人なしとて、年月を歴(へ)給ひしに、了雲老師にまみえ給ひ、性の論に及び、先生みづからの見識を言はんとしたまふに、卵をもって大石にあたるがごとく、言句を出し給ふことあたはず、爰(ここ)において悦(よろこび)服し、師として事(つか)へ給へり。

其後は日夜他事なく、いかんいかんと心を尽し、工夫し給ふ事、一年半も過ぎたる頃、母病ひに臥給ふ故、故郷へ行きたまへり。

其時先生四十歳ばかりなり。正月上旬の事なりけるが、母の看病し居たまひしに、用事ありて扉(とぼそ)を出でたまふとき、忽然として年來のうたがひ散じ、尭舜の道は孝弟のみ、鵜は水を泳(くぐ)り、鳥は空を飛ぶ、道は上下に察(あきらか)なり。性は是天地万物の親と知り、大いに喜びをなし給へり。

其後都にのぼり師にまみえたまひ、礼終りて、師工夫熟せるやと問ひたまふ。先生対(こた)ふるに、如是(にょぜ)如是といひて、きせるにて空(くう)を打ちたまひければ、師日、汝が見たる所は、有べがかりのしれたることなり、盲人象を見たる譬(たとえ)のごとく、あるひは尾を見、あるひは足を見るといへども、全体を見ることあたはず、汝我(わが)性は天地万物の親と見たる所の目が残りあり、性は目なしにてこそあれ、其目を今一度はなれきたれとありければ、先生それより又日夜寝食を忘れ、工夫したまふ事、一年余を経て、ある夜深更におよび、身つかれ、臥したまひ、夜の明けしをもしらず、臥しゐ給ひしに、雀のなく声きこえける。其時腹中は大海の静々(せいせい)たるごとく、また青天の如し。其雀の啼ける声は、大海の静々たるに、鵜が水を分けて入るがごとくに覚えて、それより自性見識の見を、離れ給ひしとなり。

⑥先生嘗て半年ばかり、師のもとへ立よりたまはざりしかば、或老弟子師へ申すやう、彼はかならず人に秀でたる者なるべし。師あまりにきびしき故、はなれたりと見ゆ、惜哉(おしいかな)と申しければ、師かれが事はかまふべからずとのたまひて、何の気色もなかりしとなり。

⑦先生師の側にゐたまひしに、師日、汝近年に宿をも持つべし、其の用意なく、唯学問ばかりに、月日をすごしてもいかがなりとありしに、先生対へて、吾は長者になるべしとのたまへば、師よろこびたまひしとなり。

⑧先生師の看病しゐたまひしに、師たばこをのまんと乞(こひ)給ひければ、先生承り、たばこに火を吸ひつけ、きせるの吸口をそと紙にてぬぐひ、指出したまひけれぱ、大いに師の心にたがひ、師曰、汝がなす所かくのごとくなれば、我が看病を、さぞむさくおもふらんとて、即時に先生を退け出し給へり。其時師の看病する者は、先生唯一人なるに、少しも近付給はざりけり。先生力なく次の間へ退き涙ながし居給ふ。

翌日同門の老弟子来たり、師へ先生のあやまちを、佗言(わびごと)せしにより、やうやく許されて、またつかへ給へり。

其後一両日に、師病ひ重り、終わらんとしたまふ時、師曰、自(みづから)註を加へし書どもを、授(さづけ)与ふべしとありければ、先生ほしからずと答へたまふ。

師日、いかがしてほしからぬぞと問給ふに、先生対(こた)へて、われ事にあたらば、新に述ぶるなりとのたまひければ、師大いに歎美したまひしとなり。

〔写真〕ご生家(2020年8月撮影)


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